け裏、江戸の地理にはことごとく通じていた。こうして屑拾いになりすまして種を上げる。犯人を尾ける。役得でもないがいろいろの落しものを拾って来る。時には善根顔《ぜんこんがお》に、病気の仔猫などを大事そうに抱えこんでくる。親分の釘抜藤吉はじめ、勘弁ならねえの勘弁勘次、この葬式彦兵衛、まことに変物揃いの合点長屋であった。
「大変とは大いに変る。こりゃあ理窟だ。」
 唐人唄を中止した彦兵衛、きょうも早朝から紙屑拾いに出かける気か、笊《ざる》を背に、長い竹箸を手に、ぶらりと出て来て、こう常吉と勘次へ半々に、挨拶でもなく、茶化すでもなく、いつもの無表情な顔でしきりに感心しているところで、やにわに家のなかから藤吉の声がした。
「大鍋のお美野さんがどうかしましたかい。」
 渋い太い、咽喉のかすれた巻舌である。釘抜藤吉、起きて聴いていたのだ。

      三

 宗右衛門橋から比丘尼《びくに》橋、いわゆる大根河岸に沿った一劃を白魚屋敷といって、ここに一般に大鍋と呼ばれている鍋屋という大きな旅籠がある。
 訴訟用で諸国から出府する者のための公事《くじ》宿と、普通の商人宿を兼ねていて、間口も広く、格式も相当高く、まず界隈での老舗《しにせ》だったが三年前に亭主が故《な》くなって今は女主人お美野、これは、もと柳橋で鳴らした妓《おんな》で、今年三十一、二の年増ざかり、美人も美人だしそれに、決して人を外らさないなかなかの腕っこき、女ひとりでこれだけの大屋台を背負って立って小揺ぎもさせないどころか、鍋屋は、このお美野の代になってからかえって発展したくらいだという。非常に身長《せい》の高い女で、よく言えばすらりとした、悪くいえば半鐘泥棒式の、しかし、前身が前身だけにいまだに凄いような阿娜者《あだもの》だったが、このお美野にかぎって、若後家にもかかわらず、またこうした人出入りの激しい客稼業《しょうばい》にも似合わず、浮いたうわさなぞついぞ立ったことがないのだった。
 前夜、十四日の真夜中、丑《うし》の下刻とあるから八つ半、いまで言う午前三時ごろだった。
 この大鍋の階下《した》の一室に宿泊していた、武州小金井の穀屋の番頭で初太郎というのが、なにかしらほとほと[#「ほとほと」に傍点]と雨戸を叩く音で眼を覚ました――。
 と、言いさして、に[#「に」に傍点]組の頭常吉は、まだ薄暗い合点長屋の土間口に押し並んだ藤吉、勘次、彦兵衛の顔を、探るように見廻している。事件|出来《しゅったい》とみて、紙屑拾いに出かけようとしていた葬式彦も引き留められ、勘次は、あわてふためいている常吉を案内して広くもない玄関《いりぐち》へ通すと、破れ半纏をひっかけた藤吉親分が、鳩尾《みぞおち》の釘抜の文身《ほりもの》をちらちらさせて、上り框《がまち》にしゃがんでいたのだった。片方に荒塩を盛って房楊子を使いながら、
「朝あ結構冷えるのう。」と、じろりに[#「に」に傍点]組を見上げて、「のう常さん、知ってのとおり、おらあ気が短えんだ。長話は願い下げよ。なんですかい、その、大鍋の泊り客で武州小金井の穀屋の番頭初太郎てえのが、夜中にひょっこり起き上がって、戸惑いでもしたってえのかい。」
 勘次も彦兵衛も、にやりと顔を笑わせたが、に[#「に」に傍点]組の常吉は、冗談どころではないといったふうに大仰《おおぎょう》に手を振って、
「なんの、なんの――。」ちょっと声を低めた。「親分、愕きなさんなよ、戸惑いは戸惑いでも、お美野さんが彼の世へ戸惑いをなすった――。」
 えっ! とでも驚くかと思いのほか、藤吉の表情《かお》は依然として石のようである。大声を揚げたのは勘次だった。
「なにっ? お美野さんが――そ、そいつぁ勘弁ならねえ。彼の世へ戸惑いといやあ自害だろうが、してまた何の理由《わけ》あって自害なんど――。」
「さ、それがよ、なに、戸惑いとは言ったものの、勘さんの前だが、自害ではねえのだ。」
「なにを言やがる。勘弁ならねえ。あの弁天様のようなお美野さんを手に掛けるやつが、日本じゅうにあるはずはねえんだ。」
 とむらい彦が、いつになく馬鹿叮嚀に口を挾んで、
「ま、お美野さんがお故《な》くなりになったとすりゃあ、ちょっくら蔵前へ走らせたでごぜえやしょうな。常磐津の名取りで文字若さんてえ女が、お美野さんの妹さんでね、三好代地《みよしだいち》に稽古場の看板を上げていなさるのだが――。」
「いや、人をやるもやらねえもねえ。」に[#「に」に傍点]組は、想い出したように新たに狼狽しながら、「運よくその師匠の文字若さんが、四、五日前から鍋屋さんに泊り込みでね、あっしゃあ今の先、大鍋さんの若い者に叩き出されて駈けつけたんだが、文字若さんの命令《いいつけ》で、すぐ、こちらの親分をお迎えにこうしてすっ[#「すっ」に傍点]飛んで来やし
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