ている八丁堀合点小路の奥の一棟――そのころ八丁堀合点長屋の釘抜藤吉といえば、広い八百八町にも二人と肩を並べる者のない凄腕の目明しであった。さる御家人の次男坊と生れた彼は、お定まりどおり、放蕩に身を持ち崩したあげくの果てが、七世までの勘当となり、しばらく草鞋を穿いて雲水の托鉢僧《たくはつそう》と洒落のめし日本全国津々浦々を放浪していたが、やがてお江戸《ひざもと》へ舞い戻って気負いの群からあたまを擡《もた》げ、今では押しも押されもしない十手捕繩の大親分――朱総《しゅぶさ》仲間の日の下|開山《かいざん》とまでなっているのであった。脚が釘抜のように曲がっているところから、釘抜藤吉という異名を取っていたが、じっさいその顔のどこかに釘抜のような正確な、執拗な力強さが現れていた。小柄な、貧弱な体格の所有主であったが、腕にだけ不思議な金剛力があって、柱の釘をぐい[#「ぐい」に傍点]と引いて抜くという江戸中一般の取り沙汰であった。これが、彼を釘抜と呼ばしめた真個《ほんとう》の原因であったかもしれないが、本人の藤吉は、その名をひそかに誇りにしているらしく、身内の者どもは、藤吉の鳩尾《みぞおち》に松葉のような、小さな釘抜の刺青《ほりもの》のあることを知っていた。現代《いま》の言葉でいえば、異常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた壱岐《いき》殿坂の三人殺しや、浅草仲店の片腕事件などを綺麗に洗って名を売り出したばかりか、当時江戸中に散っていた大小の眼あかし岡っ引の連中は、たいがい一度は藤吉部屋で釜の下を吹いた覚えのある者で、また彼らの社会では、そうした経験が何よりの誇りであり、頭と腕に対するひとつの保証でもあった。で、繩張りの厳格な約束にもかかわらず、藤吉だけはどこの問題へでも無条件に口を出すことが暗黙のうちに許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかった。そのかわり頼まれればいつでも一肌脱いで、寝食を忘れるのがつねであった。つぎからつぎと各方面から難物が持ち込まれた。それを、多くの場合推理一つで、快刀乱麻の解決を与えてきていた。お堀の水に松の影が映らない日はあっても、釘抜の親分の白眼《にら》んだ犯人《ほし》に外れはないと、江戸の町まちに流行《はやり》の唄となって、無心の子守女さえお手玉の合の間に口ずさむほどの人気であった。
 ――「八丁堀合点長屋店人釘抜藤吉捕物|覚書《おぼえがき》」という題で遺っている、大福帳のような体裁の、半紙を長く二つ折りにした横綴じの写本である。筆者は不明だが、釘抜藤吉の事件帖である。その筆初め「の[#「の」に傍点]の字の刀痕のこと」の項に、親分藤吉の人物と名声をこう説明してあるのだ。それは以前、藤吉第一話のなかに書いたことだが、いまこうして、もう一度くり返しておくことも、あながち無駄ではあるまい。
 大声を上げて飛び込んで来たのは、町火消しに[#「に」に傍点]組の頭常吉だった。
 竹片を突き刺して、火の通りをよくしていた勘弁勘次は、その竹を焚火のなかへ投げすてて、びっくり、腰を伸ばした。
「なんでえ。でっけえ声をしやがって――おお頭じゃあねえか。てえへん[#「てえへん」に傍点]とは大いに変ると書く。めったに大変などと言うめえぞ。勘弁ならねえ。」
「勘さんか、」とに[#「に」に傍点]組は肩で呼吸《いき》をして、「や、偉《えれ》えことになった。大鍋《だいなべ》のお美野さんがお前――。」
 言いかけたとき、立てつけの悪い藤吉方の格子戸を内部《なか》からがたぴし開けて、なんともいいようのない不思議な、眠そうな声が、水を撒くように冷たく、低く聞えて来た。
「かんかんのう、きうのれす、きうはきうれんれん、にいくわんさん、いんぴんたいたい、しいくわんさん……。」
 文化の末、大阪の荒木座で道楽者の素人芝居があって、その時人気を呼んだ唐人唄と称する与太ものなのだが、これが江戸へもはいって、未だちょいちょい流行っている。それはいいが、今その唐唄《からうた》をお経のように厳《おごそ》かに唱えながら現れたのは、藤吉第二の乾児――といっても二人きりなのだが、その二の乾児のとむらい彦、葬式彦兵衛だった。
 勘次があくまで鉄火者なのに引きかえて、この下っ引の葬式彦兵衛は、まるで絵に描いた幽霊のような存在で、しじゅう何かしらこの唐人唄のようなことを、ぶつくさ口の中でつぶやいているのみか、紙屑籠を肩に毎日江戸の巷を風に吹かれて歩くのが持前の道楽、有名な無口《だまり》家で、たいがいの用はにやり[#「にやり」に傍点]と笑って済ましておくが、そのかわり物を言う時には必要以上大きな声を発して辺りの人をびっくりさせた。そして、超人間的に感覚の発達した男だった。朝も晩も鉄砲籠を肩に、足に任せてほっつき廻っているので、大路小路の町名、露地抜
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