にまた、間の悪いことにゃあ、こんなでっけえ飛石が――。」
 おこうの眼が、一時に上吊《うわづ》った。
「あの、庄公が――庄太が――!」
「お気の毒で――、」長五郎は、ぴょこりと頭を下げた。「何と言ったらいいか、挨拶が出ねえ――。」
 膝が折れて、惣平次は、がたがたと、そこの履物を掴んだ。
 押し退けて、駈け出そうとした。
 長五郎の背後から出て来た侍が、前に立った。
「察する、が、取り乱してはならぬ。これ、取り乱してはならぬ!」
「大怪我、大怪我、でござりますか、庄公は。」
「うむ。まず、怪我は大きい。」
 惣平次の両手が、侍の袴を掻いた。
「苦しんで、おりますか、苦しんで。」
「苦しんでは、おらぬ。」
「ああよかった。それでは、たいしたことはないので――。」
「もう、苦しんではおらぬ。」静かに、「極楽――。」
「ははあ――。」と、意味が、はっきり頭へ来ると、惣平次は、上り口に腰をおろした。宙を見詰めたまま、そっと、老妻の手を取った。
 ふと、長いしずけさが落ちた。
「ひとり息子でした。」惣平次の口唇が、動いた。「孝行者で――。」
 誰も、何とも言わなかった。
 侍が、咳をして、
「わしは、逸見家の用人だが、屋敷の仕事中に亡くなったのじゃからと、上《かみ》より、特別の思召しをもって、破格の葬金《とむらいきん》を下し置かれる。その使いにまいった。」
 おこうと惣平次は、ぽかんと顔を見合っていた。
「一職人に対して、前例のないことじゃが、」用人は、つづけて、「百両の香奠《こうでん》、ありがたくお受けしまするように。」
「え?」
 惣平次が、訊き返した。
「爺《とっ》つぁん、百両だ。百両――。」
 長五郎が口を添えると、
「百両! ううむ、百両、か。」
 と、呻いて、突如、真っ黒な恐怖が、むずと惣平次を掴んだ。
 咽喉の裂けるようなおこうの叫びが、惣平次には、聞えなかった。かれは、気を失って、ぐったりと円く、土間へ崩れた。

      五

 水戸様お石場番所の番人の倅で、瓦職の庄太郎というのが、仕事先の、逸見若狭守お屋敷の屋根から、誤って滑り落ちて、飛び石で頭蓋《あたま》を砕いて死んだ――それはそれとして、その陰に、こんな面妖《めんよう》な話がある。
 ――と、風のように聞き込んだ八丁堀合点長屋の岡っ引釘抜藤吉が、乾児の勘弁勘次にも葬式彦兵衛にも告げずに、たった一人で、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。
 いかにも、奇体な話だ。
 ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、
「御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。」
 戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。
 あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように窶《やつ》れた惣平次が、
「八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。」
 虚《うつ》ろな、咎めるような口調だ。
「じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。」
 竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。
 藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に凭《もた》れて、坐った。
 仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。
 惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。
「あの部屋で、三人じっと無言《だんまり》でいた時ほど、凄いと思ったことはねえよ。」
 後で藤吉が、述懐した。
 本所の南、五本松の浄巌寺《じょうがんじ》に、庄太郎の遺骸《なきがら》を埋めて、今は陰影《かげ》と静寂の深い家に、老夫婦は、こうして、ぼんやりすわって来たのだった。
 あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら帰宅《かえ》って来そうな気がしてならない。
 とにかく、これでお終《しま》いという法はない。これで、すべてがおわったのでは、自分たちの老いた心に、あまりにも残酷すぎる。こんなはずはないのだ――ふたりは、そう信じきっているようだった。今に、何かきっと、いいことが起る。なにもかも、とど笑いばなしになるような、素晴らしい突発事が、近く待っていなければならない。
 そして、庄公は帰宅《かえ》ってくる。必ず、にこにこ笑って、かえってくる!
 と、固く、思い
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