、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。
 いかにも、奇体な話だ。
 ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、
「御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。」
 戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。
 あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように窶《やつ》れた惣平次が、
「八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。」
 虚《うつ》ろな、咎めるような口調だ。
「じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。」
 竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。
 藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に凭《もた》れて、坐った。
 仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。
 惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。
「あの部屋で、三人じっと無言《だんまり》でいた時ほど、凄いと思ったことはねえよ。」
 後で藤吉が、述懐した。
 本所の南、五本松の浄巌寺《じょうがんじ》に、庄太郎の遺骸《なきがら》を埋めて、今は陰影《かげ》と静寂の深い家に、老夫婦は、こうして、ぼんやりすわって来たのだった。
 あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら帰宅《かえ》って来そうな気がしてならない。
 とにかく、これでお終《しま》いという法はない。これで、すべてがおわったのでは、自分たちの老いた心に、あまりにも残酷すぎる。こんなはずはないのだ――ふたりは、そう信じきっているようだった。今に、何かきっと、いいことが起る。なにもかも、とど笑いばなしになるような、素晴らしい突発事が、近く待っていなければならない。
 そして、庄公は帰宅《かえ》ってくる。必ず、にこにこ笑って、かえってくる!
 と、固く、思い
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