ぐに殺られる。廊下に人がいねえで、影だけ映っていた――。」
「紋之助さんとおこよさんは、あっしが席主の旦那を呼びに引っ返して、いま親分と一緒にここへ来るあいだに、何も知らねえで化粧部屋へはいったものでごわしょう。」
「そうだろう。訊いてみりゃあわかる。」
「すると、誰もいねえ廊下で、」彦兵衛がむすぶように、「武右衛門は絞め殺されたわけですね。」
「まあ、そんなことにならあ。」
裏口へ通ずる廊下のむこう端に、驚愕に色を失った銀兵衛おやじの蒼い顔が、怖る恐る覗いた。銀兵衛は、楽屋口を預かる下足番で、枯木のような小柄な老人である。
「おい、銀!」幸七が、呼び込んだ。
「誰も出て行きゃあしめえな。」
「へえ、そうお達しだから、裏を閉めてしまいました。」
「馬鹿野郎、締めちゃあ仕様がねえじゃないか。もう追っつけ伯朝師匠が乗り込むころだが、来たって、はいれやしめえ。」
「なあに、心配しなさんな。」藤吉は、珍しく笑って、「犯人《ほし》せえ挙げりゃあすぐにも開けてやらあな。」
そして、銀兵衛へ、「こう、爺つぁん、お前、武右衛門の死んだこたあ今聞いたのか。」
出方の藤吉が、幸七へあわただしく囁いて、
「つぎは浮かれ節の花坊主だが、知らせてようがすね。」
藤吉が、聞き咎めた。
「芸人衆は、ちっとも見えねえようだが、どこに詰めているんだ。」
「この部屋もそのためにあるんですが、高座のすぐ裏なもんですから、出の近い人が待つだけで、皆ずっと向うの座敷のほうにごろごろしております。さっき申し上げた化粧部屋の、また彼方なんで。」
「そうか。道理で、ちっとも姿を見せねえと思った。武右衛門も、そこへ帰ろうとしてここを通っていたんだな。」
と藤吉が眼を返すと、銀兵衛がつづけて言った。
「すこしも存じませんでございました。旦那が廻って来て、誰も出しちゃあいけねえというんで、初めて知りましたようなわけで――。」
「おめえは裏口を離れずにいたんだな。」
「へえ。芸人衆のお履物を預かっておりやすんで。」
「この廊下を通って、誰か出て行った者があったろう、なあ爺つぁん。」
銀兵衛は、きょとんとして、首を振った。
「いいえ裏ぐちは一つですが、どなたも。」
五
ふふんと藤吉は、小鼻をふくらませて黙りこんだが、すぐ顔を上げて、銀兵衛に、向うへ行けという合図をした。
「ほんとに誰も、出て行った者はごぜえません。あっしは、裏ぐちにすわりっきりで、円枝さんの下駄の鼻緒が切れたんで立ててあげておりましたが――。」
楽屋番の銀兵衛がもう一度そう繰り返したが、藤吉は、聞いていそうもない様子だった。じぶんの胸元を覗き込むようにうつむいて、かれはしきりに爪を噛んでいるのだ。
大石武右衛門は、見るとおりに、それこそ牡牛を三匹合わせたほどの、大兵肥満の男である。それに、いまこの柳江亭の人気を一身にあつめている、前代未聞の力業師なのだ。その大石武右衛門が高座を下りて、一本の蝋燭の光を背中に浴びながら狭いまっすぐな廊下を通って溜りのほうへ帰って行こうとしていると、途中で、何者かが武右衛門の頸部へ綱を捲きつけて、――あっという間に、見事にこの大漢《おおおとこ》を絞殺したのだった。
信じられない。この力持ちが、そうやすやすと絞め殺されようとは、これは、八丁堀合点長屋の親分釘抜藤吉でなくても、常識のある人間なら、誰しも受け取れないところである。しかも、その時、高座のすぐ裏、細廊下の横隣りの、一段高くなっている出を待つ部屋に、人形つかいの竹久紋之助と三味線引きのおこよが、二人で話し込んでいただけで、見とおしのきく廊下には人っ児ひとりいなかったというのだ。これは、事件のすぐあと、つまり武右衛門が倒れて間もなく、恐らくは、一、二、三、四、五、六――とは数えないうちに、客席から廊下へはいって来た出方の藤吉の証言である。そして、今また、楽屋口で芸人の下足番をしている銀兵衛が、これに裏書きするように、誰も廊下を通って裏へ出て行ったものはないと断言しているのだ。ことに、不思議なのは、廊下へはいって来ると一拍子に、出方の藤吉の見たという、障子に躍って消えた影である――。
人はいないのに、高座の上り口にある蝋燭の灯りを受けて、その影法師だけが、障子にうつっていたという。
たしかに、はっきり見たと出方の藤吉は主張するのだが、それは、普通人の大きさの人かげで、厚い着物を着て、袴をはいたように、ふくれ返って見えた。大きな髷に結って、傴僂《せむし》のようだったとも言っている。何か糸のようなものを持っていたと、男衆藤吉はいうのだが、すべては、はっと思った一瞬間の印象で、閃めくように障子をかすめて消えたのだから、もとより、こまかに話すとなると、至極漠然たるもので、夢の想い出の又聞きのようなことにな
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング