いような顔をする。
「まあ、急《せ》くなってことよ。」
 その釘抜のような顔を運んで、藤吉は、ぴょこりと廊下へ降りた。そして、にわかに鋭い眼になって、一方から蝋燭の光の来る、細い廊下の上下を見渡した。
 うしろからだけ光線を浴びた藤吉の影が、障子をいっぱいに埋めて、黒く塗り潰したように見える。藤吉は、二、三歩、障子のほうへ進んでみた。
 光から遠ざかると、それだけ影が大きくなる――そして、それだけ影が薄くなる。茫っと、拡がるのだ。
 と、その藤吉をぼんやり見守っていた彦兵衛の耳に、不思議な音が聞こえて来た。
 どうやら、藤吉が、笑いを抑さえているらしいのである。が、すぐ、
「なあ、彦。」と、振り向いた藤吉は、もう笑ってはいなかった。「おらあ十手渡世が嫌になった――。」
 また始まった! こう親分が、悲観的な口調を洩らすところをみると、さては謎が解けた、と思って、彦兵衛が微笑を噛み殺していると、藤吉は続けて、
「おいらは、あたまがどうかしてらあ。今のいままで、こんなことに気がつかねえたあ、われながら、情なくて、あいそが尽きるじゃあねえか。」
 拍手の音が聞こえて、浮世節が終ったらしく、花坊主が降りて来そうな気はいだった。つぎは、呼びものの一つの紋之助の人形である。すると、眼が覚めたように活気づいた釘抜藤吉だった。
 いきなり、その、出の時が迫って来たので、高座のほうへ廊下を進もうとする紋之助老人の前に、立ち塞がった。
 幸七、出方の藤吉、円枝、梅の家連の女たち、楽屋番の銀兵衛ほかの芸人などが、愕いた顔を、そのまわりに持って来る。
 人々に囲まれて、おこよは、紋之助を庇おうとするように、前へ出た。
 しずかに、藤吉が、言っていた。
「師匠。」
 静かに、紋之助が、答えた。
「何でございます。」
「やったね、師匠。」
「ほほう、何のことで――。」
 ちょっと、間があった。
 紋之助は、痩せた肩を聳かして、真正面から、藤吉を見据えた。
「おそれいりますが、おめがね違いです。」
「とは言わせねえぜ。じつああっしが――と、直《ちょく》に出な、直に。」
 口を開いたのは、おこよだった。
「親分さん、何をつまらない冗談をおっしゃるんです。」血が滲みそうに、切れ長の眼尻が、上っていた。
「師匠は、鼠一匹殺さないお人で、それに、こんなお年寄りじゃあありませんか。釘抜藤吉とも言われる方が
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