住か小塚ッ原――。」
「あっ!」
と喜兵衛は大声を揚げた。もう白々と明るくなった中庭の隅に、煙りのように黒い影が動いたのだった。
「あれですかい。」
と藤吉は笑った。
「今の脅し文句も、じつは、あのお方にお聞かせ申そうの魂胆《こんたん》だったのさ。」
庭の影は這うように生垣《いけがき》へ近づいた。
「おい、仙どん。」
藤吉は呼びかけた。
「お前そこにいたのか。」
猿のような鳴声と共に、ひらり[#「ひらり」に傍点]と仙太郎は庭隅から路地へ飛び出した。
「野郎、待てっ。」
跣足《はだし》のまま藤吉は庭の青苔を踏んだ。
「親分。」
と、葬式彦兵衛が縁側に立っていた。
「吉野屋へ行って来やしたよ。」
「いたか。」
垣根越しに仙太郎の後を眼で追いながら、こう藤吉はどなるように訊いた。
「清の奴め青い面して震えていやがったが、浅草橋の郡代前《ぐんでえめえ》へ引っ立てて、番屋へ預けて参《めえ》りやした。」
「でかした。」
と一言いいながら、藤吉は縁へ駈け上った。
「彦、仙公の野郎が風を食いやがった。路地を出て左へ切れたから稲荷橋を渡るに違えねえ。まだ遠くへも走るめえが、手前一つ引っくくってくるか。」
「ほい来た。」
と彦兵衛は鼻の頭を擦り上げて、
「どこまでずらかり[#「ずらかり」に傍点]やがっても、おいらあ奴の香《か》をきいてるんだから世話あねえのさ。親分、あの仙公て小僧は藁臭えぜ――。」
「はっはっは、また道楽を始めやがった。さっさとしねえと大穴開けるぞ。」
「じゃ、お跡を嗅ぎ嗅ぎお迎《むけ》えに――。」
ぐい[#「ぐい」に傍点]と裾を端折《はしょ》って、彦兵衛は表を指して走り出した。
「彦。」
藤吉の鋭い声が彼を追った。
「いいか、小当りに当って下手にごて[#「ごて」に傍点]りやがったら、かまうことあねえ、ちっとばかり痛めてやれ。」
「この模様じゃ泥合戦は承知の上さ。」
呟きながら彦兵衛は振り返った。
「して、これから、親分は?」
「知れたことよ、郡代前へ出向いて行って上布屋をうん[#「うん」に傍点]と引っ叩《ぱた》いてこよう――。」
四
羽毛のような雪を浮かべて量《かさ》を増した三|俣《また》の瀬へ、田安殿の邸の前からざんぶ[#「ざんぶ」に傍点]とばかり、水煙りも白く身を投げた荷方の仙太郎は、岸に立って喚いた彦兵衛の御用の声に、上の橋から船番所の艀舟《はしけ》が出て、二丁ほど川下で水も呑まずに棹にかかった。
が、一切の罪状は、それより先に越後上布の清二郎が藤吉の吟味で泥を吐いていた。
三年前に徳撰の店へ寄った時、今度は北へ足を向けるというのを幸いと、日陰者の一子徳松の行方捜査を、撰十はくれぐれも清二郎に頼んだのであった。それもただ仙台石の巻のお冬徳松の母子としかわかっていないので、この探索は何の功をも奏すはずがなかった。で、三年越しに江戸の土を踏んだ清二郎は、失望を齎《もたら》して、撰十を訪れ苦心談を夕方まで続けて帰途についたのだった。その、奥座敷の密談を、ふと小耳に挾んで、驚きかつ喜んだのは荷方の仙太郎であった。
星月夜の宮城の原で、盆の上のもの言いから、取上婆さんのお冬の父無《ててな》し児がら[#「がら」に傍点]松という遊び仲間を殺《あや》めて江戸へ出て来た仙太郎は、細く長くという心願から、外神田の上総屋を通してこの徳撰の店へ住み込んだのだったが、そのがら[#「がら」に傍点]松が主人撰十の唯一の相続人たる徳松であろうとは、彼もつい昨日まで夢にも知らなかったのである。が、秘密がわかるのと悪計が胸に浮ぶのとはほとんど同時だった。これだけの店の大旦那と立てられて、絹物《おかいこ》ぐるみで遊んでくらせる生涯が、走馬燈のように彼の眼前を横ぎった。歳恰好から身柄といい、がら[#「がら」に傍点]松と彼とは生き写しだった。今様《いまよう》天一坊《てんいちぼう》という古い手を仙太郎は思いついたのである。善は急げと、折柄の忙しさに紛れて彼は帰り行く上布屋清二郎の後を追い、新右衛門町の蕎麦屋へ連れ込んで一伍一什《いちぶしじゅう》を打ち明けた後、左袒方《さたんかた》を依頼したのであった。
初めの内こそ御法度《ごはっと》を真向《まっこう》に、横に首を振り続けている清二郎も、古傷まで知らせた上は返答によって生命をもらうという仙太郎の脅しと、なによりもたんまり謝礼の約束に眼が晦《くら》んで、あげくの果てに蒼い顔して承知したのであった。
いよいよ話が決まるまでは、奉公人の眼はできるだけ避けたがよかろうと、丑満《うしみつ》の刻を喋《しめ》し合わせた二人は、まず清二郎が庭先へ忍んで撰十を置場へ誘《おび》き入れ、そこで改めて仙太郎を徳松に仕立てて、父子の名乗りをさせたまではよかったものの一時は涙を流して悦んだ撰十
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