んで来た若い男。手甲脚絆に草鞋に合羽、振分の小荷物が薄汚れて、月代《さかやき》の伸び按配も長旅の終りと読める。肩で息して首を振りながら、
「お店の前――な、何がありましたえ? く、首とかなんとか――私もちら[#「ちら」に傍点]と見ましたが、ど、ど、どうしたわけでござんすいったい?」
「おう、弥吉、よう早う帰りました。今もな、八丁堀の親分と、お前の噂をしていた矢先。」
「弥吉どん、お戻り。」
「弥吉どん、お戻り。」
「はいはい、偉くお世話になりました――これはこれは親分さま、いらっしゃいまし――旦那さま、浦和からくれぐれもよろしくと申しました。これは浦和名産五|家宝※[#「米+巨」、第3水準1−89−83]※[#「米+女」、第3水準1−89−81]《かぼうおこし》、気は心でございます。お糸様は?」
「おうお、なにからなにまでよく届きます。糸かい、首の騒ぎで気分を悪うしてな、頭痛がするとか言うて奥に臥《ふせ》っとりますわい。」
「お糸さんは、」藤吉が口を出した。「首を見たのけえ?」
「いいえ親分、見るどころか、それと聞いたら気味悪がってもう半病人、娘ごころ、気の弱いのに無理はござんすまい。」
「そうよなあ。」
 呆然《つくねん》とした藤吉の耳へ、勘次の声が戸外から、
「親分、一件を下ろしたぜ。」
「そうか。よし。」
 皆が一度に弥吉に首の経緯《いきさつ》を話す声、それを背中に聞いて、藤吉、往来へ出た。
 桔梗屋の青竹獄門、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と拡がったから耐らない。雨の日の無為《しょうことなし》、物見高い江戸っ児の群が噪いで人|集《だか》りは増す一方、甘酒屋が荷を下ろしていたが実際相当稼ぎになるほどの大人気。
「いよう、合点長屋あっ!」
「大釘抜っ!」
「親分千両!」
 藤吉の姿にいろんな声がかかる。見渡したところ、早や先刻の遊人は立去ったらしかった。
「ちっ、閑人が多すぎらあな。」
 呟いた藤吉、勘次の手から竹付きの首を受け取ったものの、顔面《かお》に千六本の刀痕《かたなきず》、血に塗れ雨に打たれて人相も証拠も見られないとしるや、二、三寸刺さった青竹を物をも言わず引き抜いて、ざぶり、首を天水桶へ突っ込んだ。並居る一同生きたこころもない。に[#「に」に傍点]組の常吉、海老床甚八、それに番頭と、旅装束のままの弥吉とが、力をあわせて押し返す群衆を制している。
 手早く洗って引き揚げた首、勘次の差しかける傘に隠れて、藤吉が検する。
「や、白髪じゃねえか。」呻いた藤吉、ぐい[#「ぐい」に傍点]と濡髪を扱《しご》いてみてから、「うむ、若白髪だな、勘、見ろい、これ、手に、墨が落ちるぜ、ふうん、染めてやがったか。や、や眉毛がねえぞ。だが、顔付《そっぽ》は皆目《まるきり》わからねえ。よくもこう切り細裂《こまぜ》えたもんよなあ。怨恨だ、なあ勘、われに訊くが男の恨みでいっち[#「いっち」に傍点]根深えのあ――?」
「はあて、知れたこと。女出入りさ。」
「おう、そこいらだんべ。この界隈《けえうええ》に行方知れずは?」
「ありゃあ耳に入るはず。」
「だが勘、昨夜の今朝だぞ。」
「これだけの人たちだ、心当りの者あ自身突ん出て来やしょう。」
「うん。それもねえところ見りゃあこの首あ遠国の者かな――が、江戸も広えや、のう。」
「あいさ、斬口あ?」
「鈍刀《どす》だ、腕もねえ――さ、口中だ。歯並び、舌の引釣り、勢《せい》があるぞ。」
「若えな。」
「うん。二十二三――四五、とは出めえ。細頸――小男だな。勘、聞け、好えか、二十二三の若白髪、優型で眉毛のねえ――これが首の主だ、どうでえ、野郎、ぴん[#「ぴん」に傍点]と来るか。」
「いっこう来やせんね。」
「だらし[#「だらし」に傍点]がねえな。」薄笑いが藤吉の口尻に浮ぶ。「首は宜え。が、胴体がどうした?」
「どこにどうしてござろうやら、さ。」
「そのことよ。俺にも見得《けんとく》が立たねえ。犯人《ほし》は?」
「へっ、真闇黒《まっくらがり》。勘弁ならねえや。」
「はっははは、御同様だ。勘、掘じくれ。」
 突如藤吉の指さす方、天水桶の傍に、紫の煮出し殻を四角の箱から開けたまま強飯《こわめし》みたいに積み上げてある江戸紫屋自慢の看板。
 が、掘じくるまではなかった。何か出て来るかもしれないと勘次が上部《うえ》へ指を入れると、触った物があるから引き出した。紫縮緬《むらさきちりめん》女持の香袋《においぶくろ》、吾妻屋の縫《ぬい》がしてある。
「堅気じゃねえな。」
 にやり[#「にやり」に傍点]とした藤吉、に[#「に」に傍点]組に首を持たしてひとまず番所へ預けにやった後、殻を払った香袋《においぶくろ》を懐中にして、また桔梗屋へはいって行き、事納《ことおさめ》に竿の代りに青竹を立てた仔細を胡散《うさん》臭《くさ》く白眼《にら》んだらしく、それ[#「それ」に傍点]となく訊き質してみたが、ただこの家の吉例だとのこと。
 弥造を肩へ立てて、藤吉、勘次を引具して店について裏へ廻った。
 何人とも解らない首が縁もゆかりもない家の軒に懸っていた。こんなことがあり得ようか。
 顔を滅多斬りにしたのは果して遺恨だけか、または首の身許の知れるのを懼《おそ》れてか。
 竹を外し、笊を取り、首を刺してまた竹を立てておいたものであろうが、それなら、その笊はどこにある? 首のない屍骸はどうした? ここで斬ったのか、外から持って来たものか。吾妻屋とある香袋は、首の主と引っ懸りがあるか。庇の下で細工をする時、犯人の身内からずれて紫殻の中へ落ち込んだのか、あるいは故意《わざ》と隠したのか。いたずらか、脅しか、恨みか。犯人の眼星は――?
 雨がすべての跡を消して、軒下の模様からは何ものも掴めなかった。八丁堀合点長屋を前に挑みかかるようなこの兇状、藤吉、自身の名に対しても心《しん》から犯人を憎いと思った。己れ、挙げずにおかいでか――決意が、深い皺となって釘抜親分の額部を刻んだ。潜《もぐ》り潜って真相《まこと》の底へいたるのが、藤吉の役目でもあり、また興でもある。今度とてぬかってなろうか、藤吉、石のように口を噤《つぐ》んで、歩を拾った。
 裏の染場、その蔭に空地、向うに一棟、小さな物置場が建っている。
 審《しら》べあぐみ、廻り廻ってこの小屋へ来た藤吉、年久しく使いもしないと見えて朽ちた板戸に赤錆びた錠が下りている。開きそうもない。が、何も試み――と手を掛けると、不思議や、錠は案山子《かかし》、するする[#「するする」に傍点]とひらいた。
「勘、きな[#「きな」に傍点]臭えぞ。」
「さては、火元が近えかな。」
 踏み込んだ二人の鼻を、埃の気がむっ[#「むっ」に傍点]と打つ。見まわす土間、狭いから一|眼《め》だ。古い道具やら空箱の類が積んである奥に、小窓を洩れる薄陽の縞を受けて二つ並んだ染料の大甕《おおがめ》、何を思ったか藤吉、転がるように走り寄って覗き込んだ。
 甕の底に俵や菰が敷いてある。撥ね退けるとなにやらばらばら[#「ばらばら」に傍点]と飛び出た。
「やっ! 梅干の種だ!」
 這うようになおも辺りを見れば、飯粒の乾枯《ひから》びたの、鰹節の破片《かけら》などが、染甕の内外に、些少《すこし》だが散らばっている。釘抜藤吉、突然上を向いて狂人のように笑い出した。と、
「親分、ちょっくら!」
 入口の勘次、声を忍ばせた。はっ[#「はっ」に傍点]とした藤吉、あわてて笑いを引っ込めると、扉の蔭に駈け寄って勘次の肩越し、戸外を窺った。
 人眼が怖いか裏口から、横町へ抜ける細道伝いに娘お糸が今しも自家《いえ》を出るところ、町家にしては伊達者めいた艶姿、さすが小町の名を取っただけ、容色《いろかたち》着付の好み、遠眼ながら水際立って見えた。勘次はあんぐり[#「あんぐり」に傍点]口を開けて、
「好い女子だなあ――勘弁ならねえ。」
 と独言《ひとりご》つその背中を、そっ[#「そっ」に傍点]と突いた藤吉、
「勘、尾けろ。」
「へ? 彼娘《あれ》を?」
「そうよ。とち[#「とち」に傍点]るめえぞ。」
「へっへ、言うにや及ぶ。糸桜、てんだ。」
「なにをっ?」
「糸ざくら蕾も雨に濡れにけり、かな。」
「ちゃんちゃら[#「ちゃんちゃら」に傍点]おかしいや。抜かるな。」
「合点承知之助。」
 勘弁勘次、影のようにお糸の跡を踏んだ。
 合点長屋へ帰ろうとして、藤吉がふ[#「ふ」に傍点]と見ると、縁起直しのつもりであろう、弥吉と小僧が尻をからげて、清水で桔梗屋の前構えをせっせ[#「せっせ」に傍点]と洗っていた。
 陽が水溜りに映えて、そのころから晴れになった。

      三

 ちょうど二月、守田座には本所の師匠の書卸し「船打込橋間白浪《ふねにうちこむはしまのしらなみ》」がかかって、これから百余日も打ち通そうという大入続き。小団次の鋳掛松、菊次郎のお咲、梵字《ぼんじ》の真五郎と佐五兵衛の二役は関三十郎が買って出て、刀屋宗次郎は訥升《とつしょう》、三津五郎《やまとや》の芸者お組がことの外の人気だった。
 この舞台《いた》に端役ながらも綺麗首を見せていた上方下りの嵐翫之丞という女形《おやま》、昨夜|閉《は》ねて座《こや》を出たきり今日の出幕になっても楽屋へ姿を見せないので、どうやら穴だけはちょっと埋めて間に合ったものの、納まりかねるのが親方の肚、なんでも木挽町の三、四丁目采女の馬場あたりに泊込《しけこ》みの家があるらしいというところから、下廻りや座方の衆がわいわい[#「わいわい」に傍点]噪《さわ》いで先刻もやたらにそこらを歩いていた――という彦兵衛の話。
 早朝から道楽の紙屑拾いに出て行った藤吉部屋の二の乾児の葬式《とむらい》彦兵衛が、愛用の竹籠を背に諏訪《すわ》因幡守様の屋敷前を馬場へかかると、路地や門口を面白ずくに歩き廻っている河原者らしい一隊に出逢った。後になり前になり、聞くともなしにしゃべり散らすのを聞いて行くと今いったような騒ぎ。何のたしにもなるまいが小耳に挾んで来た、藤吉より一足先に帰宅《かえ》っていた彦兵衛は、こう言って伸びをした。
 ふん[#「ふん」に傍点]と鼻で笑った藤吉、そうかとも言わずに退屈そうな手枕、深々と炬燵《こたつ》に潜って、やがて鬱気もなげな高鼾が洩れるばかり――。
「お、親分え、大事だ。勘弁ならねえ。」
 路地の中途から呶鳴って、勘弁勘次が毬のように転げ込んで来たのは、それから一時ほど後だった。
 お糸のあとを慕った勘次、岡崎町の桔梗屋を出で、堀長門から素袍《すおう》橋、采女の馬場へかかったかと思うと、西尾|隠岐《おき》中屋敷へ近い木挽町三丁目のある路地口の素人家《しもたや》、これへお糸がはいるのを見届けてからさり[#「さり」に傍点]気なく前を通ると、お糸の声で、
「婆や、あの人は?」
 と言うのが聞えた。すると内部《なか》から障子が開いて、白髪の老婆が首を出し、
「あら、お糸さま、昨夜お会いなすったばかりなのに、ほほほほ――あの人が今ごろここにおいでなさるもんですかねえ。まあ、お上りなさいましよ。」
 訳識《わけし》り顔の挨拶だ。
 往き過ぎた勘次、四、五軒向うの八里半丸焼きの店へ寄って訊いてみると、老婆の名はおりき、若いころから永らく桔梗屋に奉公していたお糸の乳母だとある。さてこそ独り胸に頷首《うなず》いて、勘次はすこし離れた個所《ところ》に立っておりきの家へ張り込もうと考えたが、見つけられては面白くない、身を隠す塀もがなとあたりを見廻すと、幸いおりき方《かた》の細格子と向い合って西尾お長屋の普請場、雨上りだから仕事は休みで職人もいない。足場をくぐってはいり込んだ勘次、生壁の蔭に潜んでひたすらおりき婆アの戸口を見守った。
「いつまで経っても婆アも娘も出て来ねえ。あっしもつい緩怠《かんたい》しやしてね、何ごころなく眼の前の壁を見たと思いなせえ。」
 坐りざま背後へ撥ねた裾前、二つきちん[#「きちん」に傍点]と並んだ裸の膝小僧へ両手を置いて、勘次はここで声を落した。
 壁と言ったところでほんの粗壁《あらかべ》、竹張の骨へ葦《あし》を渡して土をぶ
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