「あら、お糸さま、昨夜お会いなすったばかりなのに、ほほほほ――あの人が今ごろここにおいでなさるもんですかねえ。まあ、お上りなさいましよ。」
 訳識《わけし》り顔の挨拶だ。
 往き過ぎた勘次、四、五軒向うの八里半丸焼きの店へ寄って訊いてみると、老婆の名はおりき、若いころから永らく桔梗屋に奉公していたお糸の乳母だとある。さてこそ独り胸に頷首《うなず》いて、勘次はすこし離れた個所《ところ》に立っておりきの家へ張り込もうと考えたが、見つけられては面白くない、身を隠す塀もがなとあたりを見廻すと、幸いおりき方《かた》の細格子と向い合って西尾お長屋の普請場、雨上りだから仕事は休みで職人もいない。足場をくぐってはいり込んだ勘次、生壁の蔭に潜んでひたすらおりき婆アの戸口を見守った。
「いつまで経っても婆アも娘も出て来ねえ。あっしもつい緩怠《かんたい》しやしてね、何ごころなく眼の前の壁を見たと思いなせえ。」
 坐りざま背後へ撥ねた裾前、二つきちん[#「きちん」に傍点]と並んだ裸の膝小僧へ両手を置いて、勘次はここで声を落した。
 壁と言ったところでほんの粗壁《あらかべ》、竹張の骨へ葦《あし》を渡して土をぶ
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