「ひゃあっ!」
 と喚《おめ》いて走り出そうとする。押さえた男、弥吉の顔を壁へ捻じ向ける。とたんに、荒壁の上下左右に火玉が飛んだ、と見えたも瞬間、めりめり[#「めりめり」に傍点]と壁を破って両腕を突き出した人間《ひと》の立姿! それが、
「ひとごろしいっ!」
 と細く尾を引いて、
「う、恨むぞ――取り殺さいでか――。」
 陰に罩《こも》った含み声。弥吉は力なく地面《じべた》へ坐った。
「ゆうべお前に殺された嵐翫之丞の亡霊だ。」壁土のなかから言う。「よくも、よくも、私を、わたしの首を――うう、怨めしやあ!」
「あっ! 御免なさい。」
 弥吉、そこへぴったり[#「ぴったり」に傍点]手を突いた。
 傍らの闇黒が動いた。藤吉親分が起っていた。
「彦、」と壁へ向って、「出て来い。上出来だ。首のねえ幽霊が、それだけ口ききゃあ世話あねえやな――のう、弥吉どん。」
「あっ!」
「これさ、弥吉どん、お前のような人鬼でも怖《こえ》えてことがあると見えるの。」
「――――」
 平伏した弥吉を取り巻いて、桔梗屋へ迎えに行った大男勘次と、今ごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]壁の中から出て来た亡者役の彦兵衛とが、むっつり見下している。藤吉はうずくまった。
「弥吉どん。やい。弥吉、わりゃあ何だな、お糸と役者の乳繰|合《え》えを嫉妬《やっか》んで、よんべおりきんとこから出て来る役者を、ここらで待ってばっさり[#「ばっさり」に傍点]殺《や》り、えこう、えれえ手の組んだ狂言《からくり》を巧《たくみ》やがったのう、やいやい、小僧、どうでえ、音を立てろっ。」
「親分さま。」弥吉が白い顔を上げた。「ま、何ということをおっしゃります。あなた様も御存じのとおり、私はこの十日ほどお店を明けて浦和へ帰っておりました。戻ったのが今朝のこと、なんで昨夜江戸のここでその役者とやらを殺し得ましょう。親分様としたことがとんでもないお眼力《めがね》違い、この上もねえ迷惑でござんす。」
「うん、そうか。こいつあ俺らが悪かったな、だがの、弥吉どん、何だってお前は詫びたんだ?」
「詫びたとは?」
「詫びたじゃねえか。つい今し方、壁の中の彦っぺに、御免なさい[#「御免なさい」に傍点]、って手を突いたじゃあねえか。よ、ありゃあいったいどういう訳合でござんすえ?」
「そんなこと、申しましたかしら――。」
「なにをっ! こう、手前俺を誰だと思ってるんだ、合点長屋の藤吉だぞ。」
「よっく存じております。」
「存じていたら手数かけずと申し上げろっ。」
「しかし親分、そ、そりゃあ御無理というもの、まったく私は浦和のほうに――。」
「そうよ。」藤吉はにやり[#「にやり」に傍点]と笑って、「十日に浦和へ行って、四、五日前に帰って来た。」
「えっ!」
「土産物担いで帰って来た。がお店へはいらねえで、裏の空小屋へ忍び込んだ。」
「だ、誰が、ど、どうしてそんなことが!」
「まあさ、黙って聞けってことよ。用意の冷飯、梅干、鰹節を齧って、お前、小屋に寝起きしてたな。」
「――――」
「江戸にゃあいねえと見せかけて、これ、女仇敵《めがたき》を狙ってたな。」
「――――」
「店頭《みせさき》の紫殻から、こう、吾妻屋の香袋が出たぜ。」
「あっ!」
 一声叫んだ弥吉、逃げられるだけは逃げるつもり、両手を振って躍り上った。が、かくあるべしと待っていた勘次、丸太ん棒のような腕を伸ばして襟髪取ってぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押さえた大盤石、弥吉、元の土に尻餅を突いて、やにわにげらげら[#「げらげら」に傍点]笑い出した。
「どうだ。」覗き込んだ藤吉、「はっはっは、土性っ骨あ据ったか。」
「おそれいりました――ついては親分、今度は私から訊かして下せえまし。」
「おう、何なと訊きな。」
「最初《はな》どうして親分は私に疑いをかけましたね?」
「それはな、」と藤吉も今は砕けて、「お前が今朝帰って来た時、俺らといういわば客人がいるにもかかわらず、ろくすっぽ仁義も済まねえうちから、へえお土産って荷を出した。なあ浦和名物五家宝※[#「米+巨」、第3水準1−89−83]※[#「米+女」、第3水準1−89−81]、結構だがちっとべえぷんと来らあな、頭《てん》でそいじゃあめりはり[#「めりはり」に傍点]ってものが合わねえじゃねえか。まるで俺らを横眼で白眼《にら》んで、あっしゃあ、これこのとおり、正にまったく真実|真銘《しんみょう》、浦和から今来た[#「今来た」に傍点]もんでござんすと言わねえばっかり、へん、背後《うしろ》暗えな、とあすこで俺らあ感ずったんだ、正直の話がよ。」
「なるほど、一言もございません。」
「あとから小屋の籠城っぷり、はっははは、種《ねた》ああれで揃ったというものさ。」
「お引立てを願います。」
 往生際の綺麗さを賞めてやってもよかった。
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