つけただけでまだ下塗りさえ往っていないのだが、武家長屋の外壁だから分が厚い。それが雨に崩れて、勘次の立っている端のほうは土が落ちかけていた。おりきの家から眼を離した勘次、何気なく鼻先の荒壁を見て、さて、仰天した。
 土の中から人間の指が出ていたのである。
 紫色の拇指が普請場の壁から覗いていたのだから、勘次は慌てた。もうおりきやお糸どころの騒ぎではない。お長屋頭へ駈け込んで人手を借りて壊れた壁土を剥いでみると、中から出て来たのは縮緬ぞっき[#「ぞっき」に傍点]の粋作り、小柄な男の屍骸《むくろ》で、――首がなかった。
 そこへに[#「に」に傍点]組の常吉が普請の用で来合わせたので、共々調べて訊いてみたところが、どうも昨日はここまで土を塗ってなかったという。して見ると、ゆうべのうちに殺っておいて首と胴とを切断《きりはな》し、胴は壁へ塗り込んで、さて、首は――もはや言わずと知れた細工であった。
「常さんがお長屋に居残って死体《たま》の番、あっしゃあひとまず飛んで帰ったわけだが、親分、すぐにも出向いておくんなせえ。」
「勘兄哥、そりゃあお前、采女の馬場だと?」黙っていた彦がこの時眼を光らせた。「縮緬ずくめの装束? ふうん。」
「ふうん[#「ふうん」に傍点]もねえや。知れたことよ。殺《ば》らされたのあその芝居者《こやもの》だ。眉毛のねえのも女形《おやま》なりゃこそ。何てったけのう、え、彦。」
「嵐翫之丞。」
「嵐家なら、屋号は?」
「岡島屋、豊島屋、葉村屋、伊丹屋に――。」
「うん?」
「吾妻屋。」
「それ見ろ。」
 彦兵衛は眼をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]、首の件を知らないから呑み込めずにいると、役者のことは初耳ながらも、勘次はなるほどと小手を叩いて、
「首の出所は知れやした。が親分、犯人は?」と思わず乗り出す。
 釘抜藤吉は哄笑した。
 狭い棟割が揺れをほどの大声だった。そしてやはり寝たままで、
「ほし[#「ほし」に傍点]ゃあお前、勘の前だが、日が暮れりゃあ出べえさ。」
 と突っ放すように言い捨てたが、ちょっと真顔になって、「勘、お糸は?」
「あい、まだおりきの家に。」
「そうけえ。」と藤吉は眼を閉《つぶ》って、「俺らあ一寝入りやらかすとしょう。こうっ、四つ打ったら起してくんな。そいから何だぞ野郎ども、好えか、その時|雁首《がんくび》揃えて待ってろよ――。」

      四

 夜に入って冴え渡った寒空、濃い闇黒《やみ》が街を一彩《ひといろ》に刷《は》き潰して、晴夜《はれ》とともに一入《ひとしお》の寒気、降るようにとまでは往かなくとも、星屑が銀砂子を撒き散らしたよう、蒼白い光が漂ってはいるが地上へは届かないから、中天に霞《かす》んで下は烏羽玉《うばたま》。そんなような千夜のうちの一夜だった。
 四つ半ごろ、岡崎町の桔梗屋の表戸を偸《ぬす》むようにほとほと[#「ほとほと」に傍点]と叩く者があった。店をしまっていた弥吉が細目に潜りを開けて見ると、雲突くばかりの大男が頬冠りをして立っていた。が見かけによらず声は優しかった。言うところを聴くと、采女の馬場おりきさんの家で当家のお糸さまが腹痛《はらいた》で苦しんでいる。男手がないから頼まれて来たのだが、誰かひとりしっかり[#「しっかり」に傍点]した人に迎えに来てもらいたいという。
 乳母おりきは暇を取って一軒持った後までもしげしげ桔梗屋へ出入りを続けていたし、お糸とは気心も合うかして、母親のない淋しさからお糸がおりき方に寝泊りして来ることも珍しくないどころか、事実、お糸は、月のうちを半々に岡崎町と采女の馬場に宿分《ねわけ》していて昨夜も更けてから帰ったくらいだから、今夜も、朝の首にでも気を腐らしておりきの家に泊って来ることと思い、桔梗屋では、別にお糸を案じもせずに一同早寝の支度を急いでいる最中へ、この急使の迎いの者に誰彼の詮議は無用、奥へ通じて提灯へ火を入れる間ももどかしく、許婚の弥吉が、先に立って夜道を走った。
「おお、寒ぶ!」
 肩を窄《すぼ》めて弥吉は男を振り返った。
「雪になるかもしれませんね。」
 男はだんまり、猫背を丸めて随いて来る。
「雪になるかもしれませんね。」
 弥吉は繰り返した。
 采女の馬場、左がおりきの住居、右側は西尾長屋の普請場、人通りもぱったり[#「ぱったり」に傍点]絶えて、高い足場の蔭だから鼻を摘まれてもわからないほどの暗さ。石川屋敷の方角で消え入るような犬の遠吠え――。
 と、この時、
「う、う、う、う――う。」
 普請場の闇黒から、低い囁き。
 弥吉の足がその場に停まった。追いついた男、
「や、あ、あれは!」
 総毛《そうけ》立った嗄《かす》れ声。沈黙。間。
「う、う、う。」
 と今度は一段高く、たしかに壁の中からだ。
 呼吸弾ませて立竦んでいた弥吉、

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