芝居茶屋で見染め合ったお糸翫之丞の浮いた仲、金に転んで宿を貸していた乳母のおりき、嗅ぎ[#「嗅ぎ」に傍点]つけて嫉妬の業火に燃え立ったのが片恋の許婚弥吉であった。その行動《うごき》は掌を指すように藤吉が言い当てていた。浦和からの戻るさ、立場《たてば》立場の茶屋で拵えさせた握飯を兵糧に、四日というもの物置に忍んで、昨夜、翫之丞を手に懸けおおせたものの、あまりと言えば細工が過ぎた。お糸を懲らすつもりの青竹獄門も、屍骸のやり場に困じての壁才覚も、結局《つまり》は、釘抜一座の幽霊仕掛に乗って、いたずらに発覚を早めただけの自繩自縛《みからでたさび》に終った。
 証拠の品はことごとく自分の懐中へ移したのが、香袋だけは、竹へ首を刺し立てる時に、抜け落ちて、紫殻の中に填《はま》ったのだった。抱きついて首を掻いた大出刃、血泥《ちみどろ》に染《まみ》れた衣裳、竹の先に懸っていた笊目籠などは、纏めて馬場わきの溝へ押し込んであった。
 聞いてみればまんざら無理からぬ心中だが、凶事は凶事、大罪人に用いる上柄《かみがら》流本繩の秘伝、小刀か笄《こうがい》で親指の関節《ふし》に切れ目を入れ、両の親指の背を合わせて切れ目へ糸を廻わして三段に巻いて結ぶという、これが熊谷家|口述《くじゅつ》の紫繩。なぜ紫繩というかと言えば、紫という字は割って読めば此糸、意《こころ》は何かそこらにあり合わせの「此の糸」でも痛みに食い入るから本繩としての役目は結構たりるというところから来ているとの説もあるし、血が糸に滲んでむらさき色を呈するからかく称するとも言われている。
 紫繩の弥吉、憮然として前後を固める合点長屋の親分乾児立去ろうとするそのあとに、鬼火を利かした小道具、燈芯やら油を含んだ綿やらが、普請場の壁下に風に吹かれて散らかっていた。
 歩き出した弥吉、振り向いて、血を吐くように叫んだ。
「お糸さまあっ!」

 おりきの家の格子戸が勢よく開いて、何も知らずに、永久《とわ》に来ぬ可愛い男を待ち侘びている娘お糸、通りの上下《かみしも》の闇黒を透かして、
「だって、ほほほ、いけ好かない婆や、今呼ぶ声がしたんだもの――あら、嫌だねえ、空耳かしら。」



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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