四
夜に入って冴え渡った寒空、濃い闇黒《やみ》が街を一彩《ひといろ》に刷《は》き潰して、晴夜《はれ》とともに一入《ひとしお》の寒気、降るようにとまでは往かなくとも、星屑が銀砂子を撒き散らしたよう、蒼白い光が漂ってはいるが地上へは届かないから、中天に霞《かす》んで下は烏羽玉《うばたま》。そんなような千夜のうちの一夜だった。
四つ半ごろ、岡崎町の桔梗屋の表戸を偸《ぬす》むようにほとほと[#「ほとほと」に傍点]と叩く者があった。店をしまっていた弥吉が細目に潜りを開けて見ると、雲突くばかりの大男が頬冠りをして立っていた。が見かけによらず声は優しかった。言うところを聴くと、采女の馬場おりきさんの家で当家のお糸さまが腹痛《はらいた》で苦しんでいる。男手がないから頼まれて来たのだが、誰かひとりしっかり[#「しっかり」に傍点]した人に迎えに来てもらいたいという。
乳母おりきは暇を取って一軒持った後までもしげしげ桔梗屋へ出入りを続けていたし、お糸とは気心も合うかして、母親のない淋しさからお糸がおりき方に寝泊りして来ることも珍しくないどころか、事実、お糸は、月のうちを半々に岡崎町と采女の馬場に宿分《ねわけ》していて昨夜も更けてから帰ったくらいだから、今夜も、朝の首にでも気を腐らしておりきの家に泊って来ることと思い、桔梗屋では、別にお糸を案じもせずに一同早寝の支度を急いでいる最中へ、この急使の迎いの者に誰彼の詮議は無用、奥へ通じて提灯へ火を入れる間ももどかしく、許婚の弥吉が、先に立って夜道を走った。
「おお、寒ぶ!」
肩を窄《すぼ》めて弥吉は男を振り返った。
「雪になるかもしれませんね。」
男はだんまり、猫背を丸めて随いて来る。
「雪になるかもしれませんね。」
弥吉は繰り返した。
采女の馬場、左がおりきの住居、右側は西尾長屋の普請場、人通りもぱったり[#「ぱったり」に傍点]絶えて、高い足場の蔭だから鼻を摘まれてもわからないほどの暗さ。石川屋敷の方角で消え入るような犬の遠吠え――。
と、この時、
「う、う、う、う――う。」
普請場の闇黒から、低い囁き。
弥吉の足がその場に停まった。追いついた男、
「や、あ、あれは!」
総毛《そうけ》立った嗄《かす》れ声。沈黙。間。
「う、う、う。」
と今度は一段高く、たしかに壁の中からだ。
呼吸弾ませて立竦んでいた弥吉、
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング