っぱら評判の甚右衛門だったが、それが、何としたことか土間に立って水気を振い落すと、彦兵衛の顔を見上げて世にも悲しげな声を絞って吠え出したのだった。
驚いて出て来た勘次が、彦兵衛と力を協せて追い出そうとしても、犬は故あるらしくますます鳴くばかり、果ては、口を利けないのがもどかしいのか、濡れ毛を人へ摺りつけておいては二、三歩戸外へ躍り出て、通りの方を白眼《にら》んで吠えに吠える、また家内へ引き返して来て促すように長なきする。雨の音、風の響きに混って、消えそうにして尾を引く甚右衛門の遠吼えは、この場合、下手な人間の舌以上に雄弁であった。それは、始めは何がなしぼんやりした恐怖、つぎに戦慄に似た不吉な予感、それから、こりゃあこうしちゃあいられねえといったような感じを冷水のように釘抜部屋の三人の背骨へ流し込むことができたからである。鮎肥る梅雨明けの陽気とはいえ、車軸を流さんばかりの豪雨と、今にも屋根を剥がしそうな大風の夜に、いとも哀れに泣き止まぬ犬の声は、犬が賢い名を取っているだけに、いっそう凄惨な余韻《よいん》を罩《こ》めて、いかさま人の死にそうな晩だ、この濃い黒|闇々《あんあん》の底にどれだ
前へ
次へ
全32ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング