て、本多隠岐守《ほんだおきのかみ》殿《どの》の黒板塀に沿うて軽子橋の方へ行く錠斎屋《じょうさいや》の金具の音が、薄れながらも手に取るように聞こえて来るばかり――。
剃り道具を載せて前へ捧げた小板を大儀そうにちょっと持ち直したまま蒸すような陽の光を首筋へ受けて釘抜藤吉は夢現《ゆめうつつ》の境を辿っているらしかった。気の早い羽虫の影が先刻から障子を離れずに、日向へ出した金魚鉢からは、泡の毀れる音がかすかに聞こえてきそうに思われた。土間へ並べた青い物の気で店一体に室《むろ》のようにゆらゆらと陽炎《かげろう》が立っていた。
「ねえ。親分。」
藤吉の左の頬を湿しながら、甚八は退屈そうに言葉を続ける。「連中は今ごろ騒ぎですぜ。砂を食った鰈《かれい》でも捕めえると、なんのこたあねえ、鯨でも生獲《いけど》ったような気なんだから適わねえ、意地の汚ねえ野郎が揃ってるんだから、どうせ浜で焼いて食おうって寸法だろうが、それで帰ってから腹が痛えとぬかしゃあ世話あねえや。親分の前だが、お宅の勘さんとあっし[#「あっし」に傍点]んとこの馬鹿野郎と来た日にゃあ、悪食《あくじき》の横綱ですからね。ま、なんにせえ、こ
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