う下心も手伝って、伴れ出しの一本たちを相手に終日盃を手から離さなかった。父親《おやじ》の名代で交際大事と顔を出したものの、元来《もともと》伝二郎としては品川くんだりまでうまくもない酒を呑みに来るよりは、近所の碁会所《ごかいしょ》のようになっている土蔵裏の二階で追従《ついしょう》たらたらの手代とでもこっそり[#「こっそり」に傍点]碁の手合わせをしているほうがどんなにましだったか解らない。好みの渋い、どちらかといえば年齢《とし》のわりに落ち着いた人柄だった。それというのも養子の身で、金が気ままにならなかったからで、今に見ろ、なにかでぼろく[#「ぼろく」に傍点]儲けを上げて、父親《おやじ》や母親《おふくろ》を始め、家つきを権《かさ》に被《き》ている女房のお辰めに一鼻あかしてやらなくては、というこころがなにかにつけて若い彼の念頭《ねんとう》を支配していたのだった。
 酒は強い方だったが、山下の軍鶏屋《しゃもや》で二、三の卸《おろし》さきの番頭たちと、空腹へだらしなく流し込んだので送り出された時にはもういい加減に廻っていた。俗にいう梯子《はしご》という酒癖《さけぐせ》で、留めるのも諾《き》かず途中|暖簾《のれん》とさえ見れば潜ったものだから、十軒店近くで同伴《つれ》と別れ、そこらまで送って行こうというのを喧嘩するように振り切って、水溜りに取られまいと千鳥脚《ちどりあし》を踏み締めながら、ただひとり住吉町を玄冶店《げんやだな》へ切れて長谷川町へ出るころには、通行人が振り返って見るほどへべれけ[#「へべれけ」に傍点]に酔い痴《し》れていた。素人家《しもたや》並みに小店が混っているとはいうものの、右に水野や林|播磨《はりま》の邸町《やしきまち》が続いているので、宵の口とは言いながら、明るいうちにも妙に白けた静けさが、そこらあたりを不気味に押し包んでいた。鼻唄まじりに、それでも頭だけはやがて来るであろう大掛りな儲け話をあれかこれかと思いめぐらして、伝二郎は生酔いの本性違わずひたすら家路を急いでいた。優しい跫音《あしおと》が背後から近づいて来たのも、かれはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っていた。縮緬《ちりめん》のお高祖頭巾《こそずきん》を眼深に冠って小豆色の被布を裾長に着た御殿風のお女中だった。二、三間も追い抜いたかと思うと、何思ったか引き返して来た。避《よ》ける暇もなかったので、あっという間に伝二郎はどうっ[#「どうっ」に傍点]と女にぶつかった。と、踵《くびす》を返して女はばたばた[#「ばたばた」に傍点]と走り出した。口まで出かかった謝罪の言辞《ことば》を引っ込まして、伝二郎は本能的に懐中に紙入れを探った。なかった。たしかに入れておいたはずの古渡唐桟《こわたりとうざん》の財布が影も形もないのである。さては、と思って透《す》かして見ると、酔眼朦朧《すいがんもうろう》たるかれの瞳に写ったのは、泥濘《ぬかるみ》を飛び越えて身軽に逃げて行く女の後姿であった。
「泥棒どろぼう――。」
 舌は縺《もつ》れていても声は大きかった。泳ぐような手つきとともに伝二郎は懸命に女の跡を追った。
「泥――泥棒、畜生、太い野郎だ!」
 と、それから苦にがしそうに口の中で呟《つぶや》いた。
「へん、野郎とは、こりゃあお門違えか――。」
 すると、街路《みち》の向うで二つの黒い影が固まり合って動いているのがおぼろに見え出した。一人は今の女、もう一人は遠眼からもりゅう[#「りゅう」に傍点]としたお侍らしかった。
「他人の懐中物を抜いて走るとは、女ながらも捨ておき難き奴。なれど、見れば将来《さき》のある若い身空じゃ。命だけは助けて取らせるわ。これに懲《こ》りて以後気をつけい――命冥加《いのちみょうが》な奴め。行けっ。」
 侍の太い声が伝二郎の鼓膜《こまく》へまでびんびん[#「びんびん」に傍点]と響いて来た。言いながら手を突っ放したらしい。二、三度よろめいたのち、何とか捨科白《すてぜりふ》を残して、迫り来る夕闇に女は素早く呑まれてしまった。
 伝二郎と侍とが町の真中で面と向って立った。忍び返しを越えて洩れる二階の灯を肩から浴びた黒紋付きに白博多のその侍は、呼吸を切らしている伝二郎の眼に、この上なく凜々《りり》しく映じたのだった。五分|月代《さかやき》の時代めいた頭が、浮彫《うきぼり》のようにきり[#「きり」に傍点]っとしていて、細身の大小を落し差しと来たところが、約束通りの浪人者であった。水を潜ったそのたびに色の褪《あ》せかけた、羽二重もなんとなくその人らしく、伝二郎の心には懐しみさえ沸《わ》き起るのだった。腕に覚えのありそうな六尺豊かの大柄な人だった。苦み走った浅黒い顔が、心なしか微笑んで、でも三角形に切れの長い眼はお鷹《たか》さまのように鋭《するど》く伝二郎を見下していた。気
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