押され気味に伝二郎は咽喉が詰ってしまったのである。
「酒か――。」
侍は噛んで吐き出すようにこう言った。
「百薬の長も度を過ごしては禍《わざわい》の因《もと》じゃて――町人、これは其許《そこもと》の持物じゃろう。しかと検《あらた》めて納められい。」
ぶっきらぼうに突き出した大きな掌《て》には、伝二郎の紙入れが折りも返さずに載《の》せられてあった。
「へっ、まことにどうも――なんともはや、お礼の言葉もございません。あなた様がお通り縋《すが》りにならなければ、手前は災難の泣き寝入りで――この財布には、旦那さま、連中の手前、暖簾《のれん》に恥を掻かせまいと言うんで大枚の――。」
言いかけて伝二郎は後を呑んだ。侍の眼が怪しく光ったように思ったからである。手早く紙入れを胴巻の底へ押し込んでから、伝二郎はながながと事件の顛末《てんまつ》を話し出した。
「此町《ここ》まで参りますと、あの女が背後からやにわに組みついて来ましたんで。素町人ではございまするが、気が勝っておりましたんで、なにをっとばかり私も、あの女を眼よりも高く差し上げて――。」
「まだ酔いが醒《さ》めんと見えるのう。」
侍は苦笑しながら、
「いいわ、近けりゃあそこまで身共が送ってつかわす。宅はどこじゃ?」
伝二郎は慌てた。
「なに、その、もう大丈夫なんで。お志だけで、まことにありがたい仕合せでござります。」
自家《うち》まで尾《つ》いて来られては、父母や女房の手前もある。ましてこの為体のしれない物騒《ぶっそう》な面魂《つらだましい》、伝二郎は怖気《おぞけ》を振ったのだった。
「袖摺《そです》り合うも何とやら申す。見受けたところ大店の者らしい。夜路の一人歩きに大金は禁物じゃ。宅を申せ、見送り届けるであろう。住居はどこじゃ?」
青くなって伝二郎は震《ふる》え上った。一難去ってまた一難とはこのことかと、黙ったまま彼は頷垂《うなだ》れていた。
「迷惑と見えるの。」
と、侍は察したらしかった。
「なんの、なんの、迷惑どころか願ったりかなったりではござりまするが、危いところを助けて戴きましたその上に、またそのような御鴻恩《ごこうおん》に預りましては――。」
「後が剣呑《けんのん》じゃと申すのか、はっはっは。」
「いえ、」と、今は伝二郎も酒の酔いはどこかへ飛んでしまって、「それでは、手前どもが心苦しい到りでございまするで、へい。」
「ま、気をつけて行くがよい。身共もそろそろまいるといたそう。町人、さらばじゃ。」
言い捨てて侍は歩き出した。気がついたように伝二郎は二、三歩跡を追った。
「お侍さまえ、もし、旦那さま。」
「何じゃ?」
懐手のまま悠然《ゆうぜん》と振り返った。その堂々たる男振りにまたしても逡巡《たじたじ》となって、
「お名前とお住宅《ところ》とをなにとぞ――。」
と伝二郎は言い渋った。
侍は上を向いて笑った。
「無用じゃ。」
と一言残して歩みを続ける。伝二郎は泥跳《はね》を上げて縋《すが》りついた。
「でもござりましょうが、それでは、手前どもの気が済みません。痛み入りまするが、せめておところとお苗字《なまえ》だけは――。」
「よし、よし、が、礼に来るには及ばんぞ。」
と歩き出しながら、
「大須賀玄内《おおすがげんない》と申す。寺島《てらじま》村河内屋敷の寮《りょう》に食人《かかりびと》の、天下晴れての浪々の身じゃ、はっはっは。」
あとの笑い声は、折柄の濃い戌《いぬ》の刻の暗黒に、潮鳴りのように消えて行った。と、それに代って底力のある謡曲《うたい》の声の歩は一歩と薄れて行くのが、ぼんやり立っている伝二郎の耳へ、さながらあらたかに通って来るばかりだった。
家へ帰ったのちも、このことについては伝二郎は口を緘《かん》して語らなかった。ただ礼をしたいこころで一杯だった。ことに幾分でもあの高潔な武士の心事を疑《うたが》ったのが、彼としては今さら良心に恥じられてしょうがなかった。
「何と言っても儂は士農工商の下積みじゃわい。ああ、あのお侍さんの心意気がありがたい――。」
何遍となく、口に出してこう言った後、二、三日した探梅日和《たんばいびより》に、牛の御前の長命寺へ代々の墓詣りにとだけ言い遺して、丁稚《でっち》に菓子折を持たせたまま瓦町は書替御役所前の、天王様に近い養家清水屋の舗《みせ》を彼はふらりと出たのであった。
「怪《け》ったいな、伝二郎が、まあ急に菩提ごころを起いたもんや――。」
関西生れの養母は店の誰彼となくこう話し合っては、真からおかしそうに笑い崩れていた。
寺島村の寮は一、二度尋ねてすぐに解った。
河内屋という、下谷の酒問屋の楽隠居が有っているもので、木口も古く屋台も歪《ゆが》んだというところから、今は由緒《ゆいしょ》ある御浪人へ預け切りで、
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