自分は近所の棟割りの一つに気の置けない生計を立てているとのことだった。
 何の変哲《へんてつ》もない、観《み》たところ普通の、如何にも老舗《しにせ》の寮らしい、小梅や寺島村にはざら[#「ざら」に傍点]にある構えの一つに過ぎなかった。枝折戸の手触りが朽木のように脆《もろ》くて、建物の古いことを問わず語りに示していた。植込みを通して見える庭一体に青苔が池の面《も》のように敷き詰っていた。
「礼に来てはならん。」という侍の言葉が脳裡《のうり》に刻まれているので、伝二郎はおっかなびっくりで裏口から哀れな声で訪れてみた。
「おう、どなたじゃ、誰じゃ?」
 こう言ってさらり[#「さらり」に傍点]と境の唐紙を開けたのは、先夜の浪人大須賀玄内自身であった。それを見ると伝二郎は炊事場の上り框《がまち》へ意気地なく額を押しつけてしまった。丁稚も見よう見真似でそのうしろに平《へい》突くばっていた。
「誰かと思えば、其許はいつぞやの町人じゃな――。」と、案に相違して玄内は相好《そうごう》を崩していた。
「苦しゅうない。穢《むさ》いところで恐れ入るが、通れ。ささ、ずうっと通れ。」
「へへっ。」
 伝二郎は手拭いを取り出して足袋の埃を払おうとした。
「見らるるとおりの男世帯じゃ。そのままで苦しゅうない。さ。これへ。」
 と玄内は高笑いを洩らした。それに救われたように、伝二郎は小笠原流の中腰でつつ[#「つつ」に傍点]っと台所の敷居ぎわまで、歩み寄って行った。
「そこではお話も致しかねる。無用の遠慮は、身共は嫌いじゃ。」
「へへっ。」
 座敷へ直るや否や伝二郎はぺたんと坐ってしまった。後へ続いて板の間に畏《かしこま》りながらも、理由《わけ》を知らない丁稚は、芝居をしているようで今にも吹き出しそうだった。
 玄内は上機嫌だった。一服立ておったところでござる。こう言って彼は風呂《かま》の前に端然《たんぜん》として控えていたが、伝二郎にも、それから丁稚にさえ自身《てずから》湯を汲んで薄茶を奨めてくれた。伝二郎がおずおず横ちょに押して出した菓子箱は、その場で主人の手によって心持ちよく封を切られて、すぐさまあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に饗応《もてなし》の材料に供せられた。浪人らしいその豁達《かったつ》さが伝二郎には嬉しかった。いつともなく心置きなく小半刻あまりも茶菓の間に主客の会談が弾《はず》んだのだった。昨日今日の見識りに、突っ込んだ身上話はしが[#「しが」に傍点]ない沙汰と、伝二郎の方で遠慮してはいたものの、前身その他の過去《こしかた》の段になると、玄内はあきらかに話題を外らしているようだった。なるほど独身者の侘び住いらしく、三間しかない狭い家の内部《なか》が、荒れ放題に荒れているのさえ、伝二郎には風流《みやび》に床しく眺められた。
 初めての推参に長居は失礼と、幽《かす》かに鳴り渡る浅草寺の鐘の音に、初めて驚いたように伝二郎はそこそこに暇を告げた。
 玄内は別に留めもしなかったが、帰りを送って出た時、
「伝二郎殿、碁はお好きかな?」
 と笑いながら訊《たず》ねた。
「ええ、もう、これ[#「これ」に傍点]のつぎに好きなんでございまして。」
 居間の床の間に、擬《まが》いの応挙《おうきょ》らしい一幅の前に、これだけは見事な碁盤と埋れ木細工の対《つい》の石入れがあったことを思い出しながら、伝二郎はなれなれしく飯をかっこむ真似をして見せた。
「御同様じゃ。」
 と玄内は哄笑《こうしょう》して、
「近いうちに一手御指南に預りたいものじゃ。こちらへ足が向いたらいつでも寄られい。男同士の交りに腰の物の有無なぞ、わっはっは、最初《はな》から要らぬ詮議じゃわい。」
 伝二郎はまぶしそうに幾度もおじぎをしたなり、近日中の手合わせを約して、丁稚を中間にでも見立てた気か、肩で風を切って、引き取って行った。
 彼は愉快で耐らなかった。玄内のような立派なお侍と、膝突き合わせて語り得ることが、それ自身この上ない誇りであるところへ、先方《むこう》から世の中の区画《くぎり》を打ち破って友達|交際《づきあい》を申し出ているのだから、伝二郎が大得意なのも無理ではなかった。が、なによりも、憎くもあり可愛くもある碁敵が、もう一人めっかったことが彼にとって面白くてならなかったのである。みちみち彼は、さんざん丁稚に威張りちらして、自分と玄内の二人が先日の晩、七人の浪藉者《ろうぜきもの》を手玉に取った経緯《いきさつ》を、「見せたかったな、」を間へ入れては、張り扇の先生そのままに、眼を丸くしている子供へ話して聞かせた。が、誰にも言うな、と口止めすることを忘れなかった。素姓《すじょう》のたしかでない浪人なぞと往来していることが知れたら、自家《いえ》の者が何を言い出すかも解らないと考えたばかりではなく、なにかし
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