ら一つの秘密を保っていたいと言ったような、世の常の養子根性《ようしこんじょう》から伝二郎もこの年齢になって脱しきれなかったのだった。
これを縁にして、伝二郎はちょくちょく寺島村の玄内の宅へ姿を見せるようになった。碁は双方ともざる[#「ざる」に傍点]の、追いつ追われつの誂《あつら》え向きだったので、三日遇わずにいるとなんとなく物足りないほどの仲となった。玄内はいつも笑顔で伝二郎を迎えてくれた。帰りが晩くなると、自分で提灯を下げて竹屋の渡しあたりまで送ってくることさえ珍しくなかった。彼の博学多才《はくがくたさい》には伝二郎もほとほと敬意を表していた。何一つとして識らないことはないように見受けられた。そのお蔭で伝二郎も何かと知ったかぶりの口がきけるようになって行った。彼のこのにわか物識りは、養父たる大旦那を始め、店の者一統から町内の人たちにまで等しく驚異《きょうい》の種であった。実際このごろでは、歩き方からちょっとした身の態度《こなし》にまで、伝二郎は細心に玄内の真似を務めているらしかった。供も伴れずに、月並みな発句でも案じながら、彼が向島の土手を寺島村へ辿《たど》る日がいつからともなく繁くなった。相手の人為《ひととな》りに完全に魅《み》されてしまって、ただ由あるお旗下の成れの果てか、名前を聞けば三尺飛び下らなければならない歴《れっき》とした御家中の、仔細あっての浪人と、彼は心の裡《うち》に決めてしまっていたのである。
「主取りはもうこりこりじゃて、固苦しい勤仕《きんじ》は真平じゃ。天涯独歩《てんがいどっぽ》浪人《ろうにん》の境涯が、身共には一番性に合うとる。はっはっは。」
こうした玄内の述懐を耳にするたびに、お痛わしい、と言わんばかりに、伝二郎はわがことのように眉を顰《ひそ》めていた。
十軒店の五月《さつき》人形が、都大路を行く人に、しばし足を留めさせる、四月も十指を余すに近いある日のことだった。
暮れ六つから泣き出した空は、夢中で烏鷺《うろ》を戦わしている両人には容赦《ようしゃ》なく、伝二郎が気がついたころには、それこそ稀有《けう》の大雨となって、盆を覆《くつが》えしたような白い雨脚がさながら槍の穂先きと光って折れよとばかり庭の木立を叩いていた。二人は顔を見合せた。夜も大分更けているらしい。それに、何を言うにもこの雨である。故障《さしつかえ》さえなければ、夜の物の不備不足は承知の上で今夜はこの寮に泊るがよいという玄内の言葉を、いや、強《た》って帰るとも断り切れず、そのうちまた一局と差し向うままに受けたともなく、拒《こば》んだともなく、至極自然に伝二郎はその晩玄内宅へ一泊することになったのであった。ええ、家の方はどうともなれ、という頭が先に立って、黒白の石に飽《あ》きれば風流を語り、茶に倦《う》めば雨に煙る夜景を賞して彼は晩くまで玄内の相手をしていた。玄内は奥の六畳、伝二郎が四畳半の茶の間と、それぞれ夜着に包まって寝についたのがかれこれ、あれで子《ね》の刻を廻っていたか――。
何時《なんどき》ほど眠ったか知らない。軒を伝わる雨垂れの音に、伝二郎が寝返りを打ったときには、雨後の雲間を洩れる月影に畳の目が青く読まれたことを彼は覚えている。もう夜明けまで間があるまい。夢か現《うつつ》にこう思いながら、ひょい[#「ひょい」に傍点]と玄関への出口へ眼をやると、われにもなく彼は息が詰りそうだった。枕元近く壁へ向って、何やら白い影のようなものがしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]据わっているではないか。あやうく声を立てるところだった。が、次の瞬間には頭から蒲団を被って掻巻《かいまき》の襟をしっかり噛み締めていた。身体じゅうの毛穴が一度に開いて、そこから冥途《めいど》の風が吹き込むような気持ちだった。が、怖いもの見たさの一心から夜具の袖を通して伝二郎は覗《のぞ》いてみた。女である。文金高島田《ぶんきんたかしまだ》の黒髪艶々しい下町娘である。それが、妙なことには全身ずぶ[#「ずぶ」に傍点]濡れの経帷子《きょうかたびら》を着て、壁に面してさむざむと坐っているのである。傾《かたむ》いた月光が女の半面を青白く照らして、頭髪《かみのけ》からも肩先からも水の雫が垂れているようだった。後れ毛の二、三本へばりついた横顔は、凄いほどの美人である。思わず伝二郎は震《ふる》えながらも固唾《かたず》を呑んだ。と、虫の鳴くような細い音が、愁々乎《しゅうしゅうこ》として響いて来た。始めは雨垂れの余滴かと思った。が、そうではない。女が泣いているのである。壁に向って忍び泣きながら、何やら口の中で呟《つぶや》いているのである。伝二郎は怖《こわ》さも忘れて聞き耳を立てた。夜は、寺島村の夜は静かである。隣りの部屋からは、主人玄内の鼾《いびき》の音が規則正しく聞えていた。玄内
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