さまが付いている。こう思うと伝二郎は急に強くなったのである。
 女は啜《すす》り泣いている。そして何か言っている。聞きとれないほどの小声だった。が、だんだんに甲高《かんだか》くなっていった。けれど意味はよくわからなかった。女の言葉が前後|顛倒《てんとう》していて、ただ何か訴うるがごとく、ぶつぶつと恨みを述べているらしいほか、果して何を口説いているのか少しも要領《ようりょう》を得ないのである。動くという働きを失ったようになって、伝二郎は床のなかで耳を欹《そばだ》てていた。すると、女が、というより女の幽霊が、不思議なことを始めたのである。壁の一点を中心にしてその周《まわり》へ尺平方ほどの円を描きながら、彼女はいっそう明晰《めいせき》な口調で妙な繰り言をくどくど[#「くどくど」に傍点]と並べ出した。聞いて行くうちに伝二郎は二度びっくりした。そして前にも増してその一言をも洩らすまいと、じい[#「じい」に傍点]っとしたままただ耳を凝《こ》らした。びしょ濡れの女は裏の井戸から今出て来たばかりだと言うのである。
 安政《あんせい》二年卯の年、十月二日真夜中の大地震まで、八重洲河岸で武家を相手に手広く質屋を営んでいた叶屋《かのうや》は、最初の揺れと共に火を失した内海紀伊《うつみきい》様《さま》の中間部屋の裏手に当っていたので、あっという間に家蔵はもとより、何一つ取り出す暇もなくすべて灰燼《かいじん》に帰したばかりか、主人夫婦から男衆小僧にいたるまで、烈風中の焔に巻かれて皆あえない最後を遂げたのだった。この叶屋の全滅《ぜんめつ》は、数多い罹災のうちでも、瓦本にまで読売りされて江戸中の人びとに知れ渡っていた。
 が、この不幸中の幸ともいうべきは愛娘《まなむすめ》のお露が、その時寺島村の寮へ乳母と共に出養生に来ていたことと、虫の報せとでもいうのか、死んだ叶屋の主人が、三千両という大金をこの寮の床下へ隠しておいたことであった。壁の大阪土の中に掘穴を塗り込んで、それを降《お》りれば地下の銭庫《かなぐら》へ抜けられるように仕組んであった。
「抜地獄」と称するこの寮の秘密を、お露は故《な》き父から聞いて知っていたのである。が、彼女もその富を享楽《きょうらく》する機会を与えられなかった。有《も》って生れた美貌《びぼう》が仇となり、無頼漢同様な、さる旗下の次男に所望《しょもう》されて、嫌がる彼女を金銭《かね》で転んだ親類たちが取って押さえて、無理往生に輿入れさせようというある日の朝、思い余ったお露は起抜けに雨戸を繰ってあたら十九の花の蕾《つぼみ》を古井戸の底深く沈めてしまった。と、それと同時に抜地獄の秘密の仕掛けも、三千両というその大金も、永劫《えいごう》の暗黒《やみ》に葬《ほうむ》り去られることになった――とこういう因果話のはしはしが、お露の亡霊からいつ果てるともなく、壁へ向って呟《つぶや》かれるのであった。
 伝二郎はぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]汗をかいて固くなっていた。恐ろしさを通り越して自分でもなんとなく不思議なほど平静になっていた。ただ、三千両という数字が彼の全部を支配していた。これだけたんまり手に入れて見せれば、養家の者たちへもどんなに大きな顔ができることか、一朝にして逆さになる自分の地位を一瞬の間に空想しながら、焼きつくように彼は女の肩ごしにその壁の面を睨んでいた。が、眼に映ったのは堆高《うずだか》い黄金の山であった。もうふところにはいったも同然な、その三千両の現金であった。彼も亦商人の子だったのである。
 と、女が立ち上った。細い身体が煙のように揺れたかとおもうと、枕頭の障子を音もなく開け閉てして、そのまま縁側へ消えてしまった。出がけに伝二郎を返り見て、にっ[#「にっ」に傍点]と笑ったようだった。改めて夜着の下深くに潜って、彼は知っているかぎりの神仏の名を呼ばわっていた。が女が出て行くや否や、がばと跳ね起きて壁の傍へ躙《にじ》り寄った。気のせいかそこだけ少し分厚なように思われるだけで、外観からは何の変異も認められなかった。が、水を浴びたように濡れていたあの女が今の今までいたその畳に、湿り一つないことに気がつくと、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫びながら伝二郎は狂気のように床へ飛んで帰った。耳を澄ますと玄内の寝息が安らかに洩れて来るばかり、暁近い寺島村は、それこそ井戸の底のように静寂《せいじゃく》そのもののすがたであった。
 朝飯を済ますと同時に、挨拶もそこそこに寮を出て、伝二郎は田圃を隔《へだ》てたほど近い長屋に、寮の所有者河内屋の隠居を叩き起した。思ったより話がはかどらなかった。その家は元八重洲河岸の叶屋のものだったが、ながいこと無人だったのをこの隠居が買い取ったものだとのことで、大須賀玄内殿に期限もなしに貸してあることではあり、かつ
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