は雨風に打たれた古家であるにもかかわらず、玄内さまもああして居ついていて下さるのだから、自分としては情において忍びないが、いつまで打っちゃっておくわけにもいかず、実は近いうちに取り毀して新しい隠居所を建てるつもりなのだと、いろいろの約定書や絵図面を取り出して、隠居は伝二郎の申し出に半顧《はんこ》の価値だも置いていないらしかった。押問答が正午まで続いた末、始めの言い値が三百両という法外《ほうがい》なところまで騰《あが》って行って、とどのつまり隠居がしぶしぶながら首を縦に振ったのだった。どうしてあの腐れ家がそれほどお気に召したかという隠居の不審の手前は、あくまで好事《こうず》な物持ちの若旦那らしくごまかしておいて、天にも昇る思いで伝二郎は蔵前の自宅へ取って返し、番頭を口車に乗せて三百両の金を拵《こしら》え、息せき切って河内屋の隠居の許までその日のうちに駈け戻った。
 金の手形に売状を掴むと、彼は仕事にあぶれている鳶の者たちを近所から駆り集めて、その足で玄内の寮へ押しかけて行った。相変らず小庭に面した六畳で、玄内は独り茶を立てていたが、隠居からすでに話があったと見えて、上り口の板敷きには手廻りの小道具がいつでも発てるように用意されてあった。その場を繕《つくろ》う二言三言を交した後、伝二郎はすぐに若い者に下知を下して、そこと思う壁のあたりを遮《しゃ》二無二切り崩しにかからせた。玄内は黙りこくって縁端から怪訝《けげん》そうにそれを見守っていた。が、伝二郎はそれどころではなかった。掘っても突いても出て来るのは藁混《わらまじ》りの土ばかり、四畳半の壁一面に大穴が開いても、肝腎《かんじん》の抜地獄はもちろん、鼠の道一つ見えないのである。こんなはずではないが――と、彼はやっきとなった。しまいには自分から手斧を振って半分泣きながらめったやたらにそこらじゅうを毀《こわ》し廻った。
「可哀そうに、とうとう若旦那も気が違ったか――。」
 人々は遠巻きに笑いながら、この伝二郎の狂乱を面白そうに眺めていた。
 はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時には、今までそこいらにいた玄内の姿が見えなかった。伝二郎は跣足《はだし》のまま半|破《こわ》れの寮を飛び出して、田圃の畔《あぜ》を転《こ》けつまろびつ河内屋の隠居の家まで走り続けて、さてそこで彼は気を失ったのである。
 隠居の家の板戸に斜めに貼ってあったのは、見覚えのある玄内のお家流、墨痕《ぼっこん》鮮《あざや》かにかしや[#「かしや」に傍点]の三字であった。
 が、ここに不思議なことには、清水屋が後から人足を送って、念のため、というよりは気休めにその古井戸を浚《さら》わせてみると、真青に水苔をつけた女の櫛が一つ、底の泥に塗れて出て来たという。

      三

「器用な真似をしやがる!」
 親方甚八の長話がすむのを待って、釘抜藤吉は、懐手のままぶらりと海老床の店を立ち出でた。いつしか陽も西に傾いて、水仙の葉が細い影を鉢の水に落していた。
「親分、今の話は内証ですぜ。」
 追うように甚八は声を掛けた。
「きまってらい。」
 と藤吉は振り向きもしなかった。
「が、俺の耳に入った以上、へえ、そうですかいじゃすまされねえ。」
 と、それから、これは口の裡《うち》で、
「しかもその大須賀玄内様がだれだか、こっちにゃあちっ[#「ちっ」に傍点]とばかり当りがありやすのさ。おい、親方、」と大声で、「うまく行ったら一杯買おうぜ。ま、大きな眼で見ていなせえ。」
 頬被りをしてわざと裏口から清水屋へはいって行った藤吉は、白痴《ばか》のようにしょげ返っている伝二郎を風呂場の蔭まで呼び出して、優しくその肩へ手を置いた。
「慾から出たことたあ言い条、お前さんもとんだ災難だったのう。わしを記憶《おぼ》えていなさるか――あっしゃあ合点長屋の藤吉だ、いやさ、釘抜の藤吉ですよ。」
 泪《なみだ》ながらに伝二郎の物語ったところも、甚八の話と大同小異だった。眼を光らせて藤吉は下唇を噛んで聞いていたが、今から思うと、あの最初の女ちぼ[#「ちぼ」に傍点]と例のお露の幽霊とは、背恰好から首筋の具合いと言い、どうも同一人らしいという伝二郎の言葉に、何か図星が浮んだらしく、忙しそうに片手を振りながら、
「して、伝二郎さん、ここが大事なところだから、よっく気を落ちつけて返答なせえ。人間てやつあいい気なもんで、何か勝負ごとに血道を上げると、気取っていても普段の習癖《くせ》を出すもんだが――お前さんはその玄内とかってお侍とたびたび碁を打ちなすったということだが、その時|先方《むこう》にみょうちきりんな仕草、まあ、いってみりゃあ、頭をかくとか、こう、そら、膝やら咽喉やらあちこち摘《つま》みやがるとか――。」
「あ!」
 と伝二郎が大声を張り揚げた。
「そういやあどう
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