いやだ――。」
と剃刀《そり》の刃を合わせていた甚八が、急に何か思いついたように大声を出した。
「親分はあの清水屋の若主人の大痛事を御存じですかえ?」
「清水屋って、あの蔵前の――。」
「さいでげすよ、あの蔵前の人形問屋の――。」
「若主人――と。こうっと、待てよ。」
藤吉は首を捻っていた。
「伝二郎さんてましてね、田之助《たゆう》張《ば》りの、女の子にちやほやされる――。」
「あ。」と、藤吉は小膝を打った。「寄合えで顔だきゃあ見知っているので、まんざら識らねえ仲でもねえのさ。あの人がどうかしたのかい?」
「どうかしたのかえは情ねえぜ、親分。」
と甚八は面白そうににやにや[#「にやにや」に傍点]していた。
「や[#「や」に傍点]にもったいをつけるじゃねえか。いったいその伝二郎さんが何をどうしたってんだい?」
「じつはね、親分、」と甚八は声を潜める。「実あお耳に入れようと思いながら、ついうっかりしてましたのさ。」
「嫌だぜ、親方」と釘抜藤吉は腹から笑いを揺すり上げた。「またいつもの伝で担ぐんじゃねえか。この間のように落ちへ行って狐憑《きつねつ》きの婆あが飛んで出るんじゃあ、こちとら引っ込みがつかねえからなあ、はっはっは。ま、お預けとしとこうぜ。」
甚八は苦笑を洩らしながらあわてて言った。
「ところが、親分、藤吉の親分、こいつあ真正真銘の掘り出しなんですぜ。」
と彼は大袈裟な表情をして見せた。
「そうか――。」
と、それでもいくぶん怪しんでいるらしく、藤吉の口尻には薄笑いの皺が消えかかっていた。その機を外すまいとでもするように、藤吉の右頬へあまり切れそうもない剃刀を当てながら、親方甚八は、
「まあお聞きなせえ。」
と話の端緒《いとぐち》を切り始める。眠るともなく藤吉は眼をつぶっていた。
孑孑《ぼうふら》の巣のようになっている戸外の天水桶が、障子の海老の髭あたりに、まぶしいほどの水映《みば》えを、来るべき初夏の暑さを予告するかのように青々と写しているのが心ゆたかに眺められた。
二
三月三十一日の常例の日には、ほうぼうの町内から多人数の繰り出しがあって、干潟《ひがた》で獲物の奪い合いも気がきくまいというところから、わざと遅れた四月の五日に、日本橋十軒店の人形店の若い連中が、書入時の、五月市《さつきいち》の前祝いにと、仕入れ先のあちこちへも誘いをかけて、怪ぶまれる天候もものかはと、出入りの仕事師や箱を預けた粋な島田さえ少なからず加えてお台場沖へ押し出したのであった。
同勢二十四、五人、わいわい[#「わいわい」に傍点]言いながら笠森稲荷の前から同朋町《どうぼうちょう》は水野|大監物《だいけんもつ》の上屋敷を通って、田町の往還筋へ出たころから、ぽつぽつ降り出した雨に風さえ加わって、八つ山下へ差しかかると、もうその時は車軸《しゃじく》を流す真物の土砂降りになっていた。葦簾《よしず》を取り込んだ茶店へ腰かけて、しばらくは上りを待ってみたものの、降ると決まったその日の天気には、いつ止みそうな見当さえつかないばかりか、墨を流したような大空に、雷を持った雲が低く垂れ込めて、気の弱い芸者たちは顔の色をかえて桑原くわばらを口のうちに呟き始めるという、とんだ遠出の命の洗濯になってしまった。
が、なんと言ってもそこは諦めの早い江戸っ児たちのことだから、そういつまでも空を白眼《にら》んでべそ[#「べそ」に傍点]をかいてばかりもいなかった。結局この大風雨を好いことにして、誰言い出すともなく、現代《いま》の言葉で言う自由行動《じゆうこうどう》を採り出して、気の合った同士の二人三人ずついつからともなく離ればなれに、そこここのちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]屋や小料理屋の奥座敷へしけ[#「しけ」に傍点]込んで晴れを待つ間を口実に、甘口は十二カ月の張り合いから、上戸は笑い、泣き、怒りとあまり香ばしくもない余興《よきょう》が出るまで、差しつ差されつ小酒宴《こざかもり》に時を移して、永くなったとはいうものの、小春日の陽脚が早やお山の森に赤あかと夕焼けするころ、貝の代りに底の抜けた折や、綻《ほころ》びの切れた羽織をずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]に片袖通したりしたのを今日一日の土産にして、それぞれ帰路についたのであった。
さしもの雨も残りなく晴れ渡って、軒の雫《しずく》に宵の明星《みょうじょう》がきらめいていた。月の出にも間があり、人の顔がぼんやり見えてなんとなく物の怪《け》の立ちそうな、誰《た》そや彼かとゆうまぐれだったという。
ちょっとでも江戸を出りゃあ、もう食う物はありませんや、という見得《みえ》半分の意地っ張りから、蔵前《くらまえ》人形問屋の若主人|清水《きよみず》屋伝二郎は、前へ並んだ小皿には箸一つつけずに、雷の怖《こわ》さを払
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