た。昨日今日の見識りに、突っ込んだ身上話はしが[#「しが」に傍点]ない沙汰と、伝二郎の方で遠慮してはいたものの、前身その他の過去《こしかた》の段になると、玄内はあきらかに話題を外らしているようだった。なるほど独身者の侘び住いらしく、三間しかない狭い家の内部《なか》が、荒れ放題に荒れているのさえ、伝二郎には風流《みやび》に床しく眺められた。
 初めての推参に長居は失礼と、幽《かす》かに鳴り渡る浅草寺の鐘の音に、初めて驚いたように伝二郎はそこそこに暇を告げた。
 玄内は別に留めもしなかったが、帰りを送って出た時、
「伝二郎殿、碁はお好きかな?」
 と笑いながら訊《たず》ねた。
「ええ、もう、これ[#「これ」に傍点]のつぎに好きなんでございまして。」
 居間の床の間に、擬《まが》いの応挙《おうきょ》らしい一幅の前に、これだけは見事な碁盤と埋れ木細工の対《つい》の石入れがあったことを思い出しながら、伝二郎はなれなれしく飯をかっこむ真似をして見せた。
「御同様じゃ。」
 と玄内は哄笑《こうしょう》して、
「近いうちに一手御指南に預りたいものじゃ。こちらへ足が向いたらいつでも寄られい。男同士の交りに腰の物の有無なぞ、わっはっは、最初《はな》から要らぬ詮議じゃわい。」
 伝二郎はまぶしそうに幾度もおじぎをしたなり、近日中の手合わせを約して、丁稚を中間にでも見立てた気か、肩で風を切って、引き取って行った。
 彼は愉快で耐らなかった。玄内のような立派なお侍と、膝突き合わせて語り得ることが、それ自身この上ない誇りであるところへ、先方《むこう》から世の中の区画《くぎり》を打ち破って友達|交際《づきあい》を申し出ているのだから、伝二郎が大得意なのも無理ではなかった。が、なによりも、憎くもあり可愛くもある碁敵が、もう一人めっかったことが彼にとって面白くてならなかったのである。みちみち彼は、さんざん丁稚に威張りちらして、自分と玄内の二人が先日の晩、七人の浪藉者《ろうぜきもの》を手玉に取った経緯《いきさつ》を、「見せたかったな、」を間へ入れては、張り扇の先生そのままに、眼を丸くしている子供へ話して聞かせた。が、誰にも言うな、と口止めすることを忘れなかった。素姓《すじょう》のたしかでない浪人なぞと往来していることが知れたら、自家《いえ》の者が何を言い出すかも解らないと考えたばかりではなく、なにかし
前へ 次へ
全19ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング