ろから、子飼いの職人から直されて暖簾《のれん》と娘おりんを一度に貰って家業を継いだのだったが材料《たね》の吟味に鑑識《めきき》が足りない故か、それとも釜の仕込みか叩きの工合いか、ともかく、伝来の味がぐっ[#「ぐっ」に傍点]と劣《お》ちてお江戸名物が一つ減ったとは、山葵《わさび》醤油で首を捻り家仲間での一般の評判であった。
客足がなくなって殖えるのは借銭ばかり、こうなると平兵衛もあわて出した。が、傾いた屋台骨は一朝では直らない。直らないどころか、家が大きければ大きいほどそれだけ倒れも早いというもの。ことに、可愛い女房が、この夏の初めに天狗の餌《えさ》に上ってからというものは平兵衛は別人のようにげっそり[#「げっそり」に傍点]痩せこけて、家の名一つで立てられている町内年寄の勤めにも自ら進んであの高札を出したほか、あまり以前ほどの気乗りも見せず、大勢の雇人にも暇をくれてこのごろはもっぱらひっこみがちだという。
家運衰退の因《もと》にも、蒲鉾|不持《ふも》てのわけにも、本人としては何か心当りでもあるかして、生来の担ぎ屋が、女房の失踪後は、万事《よろず》につけてまたいっそうの縁起ずくめ。それかあらぬか、お告者《つげもの》らしい白衣の女が夜な夜な磯屋の戸口を訪れるなぞという噂の尾に尾が生えて、神隠し事件と言い何といい、いつもならそぞろ歩きに賑わうはずのこの町筋も、一刻千金の涼味を捨てて商家は早くも鎧戸を閉《た》て初め、人っ子ひとり影を見せない。
月の出にも間があろう。軒を掠めてつうい[#「つうい」に傍点]と飛ぶあれは蝙蝠《こうもり》。
おりんが居なくなってからの平兵衛の変りよう、そこには愛妻を失った悩み以外に何物かが蟠《わだか》まっていはしないか。それから不思議といえばもう一つ。ほかでもない、あれからめっきり蒲鉾の味がよくなって、これが通な人々の間に喧伝され、そろそろ売上げも多くなり、今日日《きょうび》はどうやら片息吐いているから、この分でいけば日ならずして店の調子も立ち直ろうとの取り沙汰。実際、磯屋平兵衛は、稼業にだけは異常な熱と励みをもって没頭しているらしかった。
高札の下で勘次彦兵衛と落合った釘抜藤吉、これだけ洗い上げて来た二人の話を交《かた》みに聞きながら磯屋の前まで来て見ると、門でもないがなるほど横手に柴折戸《しおりど》がある。そこから暗剣殺は未申《ひつじさる》の方角、背戸口の暗黒《やみ》に勘次を忍ばせておいて、藤吉は彦を引具し、案内も乞わずにはいり込んだ。
土間の広い仕事場、框《かまち》の高い店、それから奥の居間から小座敷と、たがいに不意の襲撃を警《いまし》めあいながら一巡りしたが、仕事場も住居家も綺麗に片づいて人のいる様子もない。蒲鉾だけは拵えた跡も見えたが、なにもかも洗い潔められて、一日の業の終ったことを語っていた。
「ちぇっ、ずらかったか。」
彦が歯を噛んだ。
「そうさの――や、ありゃあ[#「ありゃあ」に傍点]何だ、あの音!」家の横手に当って軽く地を踏むひびき。
「勘|兄哥《あにい》じゃねえかしら。」
「勘が持場あ外すわけあねえ。」
木枯に鳴る落葉と言おうか、家路を急ぐ瞽女《ごぜ》の杖といおうか、例えば身軽な賊の忍ぶような。
「開けて見べえ。」
内にも忍ぶ二人、抜足差足縁側へ出て、不浄場近い一枚をそう[#「そう」に傍点]っと引いた。
「灯を消せ。」
真の暗黒。
透かして見る。夜は、下から見上げるようにすれば空明りに浮び出て物の姿《かたち》がはっきりする。
「犬だ※[#逆感嘆符、1−9−3][#「※[#逆感嘆符、1−9−3]」はママ] お、白え犬だぞ!」
「ややっ、昼間の野良犬、頬を銜えた――。」
「しいっ!」
と低声。なおも凝視《みつめ》る。
犬は、白犬は、垣について土を嗅ぎ嗅ぎ、裏へ廻って小庭の隅を掘り出した。心得た場所と見えて逡巡《ためらい》もしない。
潮時を計った藤吉。
「彦!」
「わあっ!」
と、犬を脅すため、大声揚げて飛び出した。消しとぶように犬は逃げる。その後に立った二人、犬の穿った穴をじい[#「じい」に傍点]っと睨んでとみには声も出なかった。
穴の周囲一尺ほどの土を埋めて、水雲《もずく》のように這い繁っているのは、星を受けて紫に光る他《た》なし漆の黒髪!
「――――」藤吉。
「――――」彦兵衛。
と、この刹那、けたたましい勘次の声が闇黒を衝いて背戸口から、
「お、親分、出た、出た、出た!」
五
「あれが。」
勘次の指す背戸口に地底から洩れる青白い光りが、土塊《つちくれ》を隈取ってぼう[#「ぼう」に傍点]っと霞んで、心なしか地面が少し盛り上っている。藤吉はつかつか[#「つかつか」に傍点]と進んでその上に立った。足から膝まで光線に浸って、着ている物の柄さえ読める。あたりを罩《こ》める射干玉《うばたま》の夜陰に、なんのことはない、まこと悪夢の一場面であった。
「おうっ、彦、勘、手を貸せ。」
藤吉の声に人心ついた二人、両手と両足を一時に使って光る土を蹴散らす。万遍なく二、三寸も掘り下げると、出て来たのが伸銅《のべがね》のような一枚の石。その下の土中から光りが射している。
「待て!」
耳を澄ます。人の呻き。どうやら足の下かららしい。思わず飛び退いて、三人力を合せて石を持ち上げる。紙のように軽い。機《はず》みを喰って背後へ下がる。とたんに、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と一条の光りの柱が白布のように立昇った。地底から、穴から――古井戸から。
六つの手を継ぎ合わして、六つの眼が穴を覗く。二、三秒、暗黒に慣れた瞳が眩《くら》んだ。やがてのこと、青白い耀《ひか》りに照らし出された井戸の底に、水はなくても焔《ひ》が燃え、人の形のかすかに動いているのが、八丁堀三人の視線を捉えた。呻き声は絶え入りそうにもつれて上る。井戸の壁と起した石とに※[#「火+召」、第3水準1−87−38]々乎《しょうしょうこ》として燠火《おきび》が※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]《かがや》いていた。
無言のうちに事が運ばれた。
逸早く彦兵衛が捜して来た物干竿の先に、御用十手が千段巻に捲きつけられて、足場を固めて立ちはだかった強力《ごうりき》勘次、みるみる内に竿の鍵へ手を引っかけて猫の仔みたいに男一人を釣り上げた。
磯屋平兵衛が虫の息で三人の足許に長くなった。顔から着物から四肢《てあし》から、うっすら[#「うっすら」に傍点]と蒼い光りがさしていた。
井戸の底には昨日|浚《さら》われた赤児お鈴の屍骸が、まるで生きているように横たわっていた。
「鬼火だの――燐だのう。」
誰にともなく藤吉が言った。その声を聞きつけたものか、平兵衛はうう[#「うう」に傍点]と唸った。彦が支えた。藤吉はいざり寄る。「お、お、親分か――よ、黄泉《よみじ》の障りだ、き、聞いてくれ――。」
片息ながら平兵衛の話した一伍一什《いちぶしじゅう》。
世の中の事はすべて落日になる時は仕方のないもので、あれほど仲のよかった女房のおりんとも何かにつけぶつかる日が多かったが、五月|末季《すえ》のある夕ぐれ、商売上の些細なことから犬も食わない立廻りのあげく、打ちどころでも悪かったものか、おりんは平兵衛の振り上げた仕事用の砧《きぬた》の下に、未だ生きていたい現世《このよ》に心をのこして去ったのだった。
驚き慌てた平兵衛、哭き悲しんでみたが、さてどうにもならない。それが、おりんの死体の処理という現実の問題に直面して、彼はいっそう困《こう》じ果てたのであった。
この時、思い出したのが背戸の古井戸。
いったい、平兵衛の代になってからいろいろの災厄が磯屋の家へふりかかってきた所以《ゆえん》のものは、一に、先代の死後間もなく彼が誤って掘らしめた暗剣殺に当る背戸口の井戸にあると、自分では固く信じていた。だから方位が悪いと気がつくや否や、大部分出来上った工事を中止させて、家の傍の小路端にあった道六神の石塔を、自身担いで来て、穴を塞ぎ、その上から土を被せてようやく安心したくらいであった。
ところが、世間の思惑と葬式の資金に困った平兵衛は、気も顛倒していたものとみえて、普段あれほど恐れ戦《おのの》いていたこの水無《みなし》井戸へ、おりんの屍《むくろ》を投げ込もうと決心したのである。
夜ひそかに土を掘り石を除いた平兵衛を、そこに一つの怪異が待ち構えていた。道六神の石標が六[#「六」に傍点]に準《なぞら》えた六角形の自然石、赤黄色を帯びて多分に燐を含む俗にいう鬼火石であることに平兵衛は気がつかなかった。また、その岩質が非常に脆く、永年土中に在って雨水異物を吸って表面がぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]に朽ち果てたところから、井戸一帯に燐の粉が零《こぼ》れて、それに鬱気《うつき》を生じ、井戸の中、覆《ふた》の石、周りの土までが夜眼にも皓然《こうぜん》と輝き渡っていたその理を、彼は不幸にも弁《わきま》えなかったのだ。
平兵衛は胆を潰した。無我夢中で死骸を投り込むと、元のとおりに石と土とで井戸を蔽って、その夜は眠られぬままに顫えて明かし、翌日からおりん失踪の件をいと真実《まこと》しやかに触れて歩いた。
初七日はちょうど精霊迎えだった。その暮方のことだった。釜の火を落していた平兵衛が背後に人気を感じて何心なく振り返ると死んだ女房、古井戸の底に丸くなっているはずのおりんが、額へ三角の紙を当てて、そっくり[#「そっくり」に傍点]白の装束でいつの間にかかいがいしく鮫魚《さめ》の伸《のべ》棒を洗っていた。
平兵衛は怖ろしいというよりも嬉しかった。衣類《きもの》こそ変れおりんはまったく生きているおりんであった。お前さん一人を置いてはどこへも行けない、あたしゃもう怒るどころかふつふつ[#「ふつふつ」に傍点]喧嘩をしない心願を立てた、その証《あか》しには二人で、せいぜい稼業を励もうと、これ、こうやって途中から引き返して来たではないか――おりんは言った。平兵衛はただ身に沁みてありがたかった。手を取って泪を流して喜び合った。
おりんが変なことを言い出した。つれの亡者から聞いたことだが、人肉は非常に香ばしくて歯切れがいいからこれを少しずつ蒲鉾へ混ぜたら、というのである。それも酉年生れの若い女の肉を酉の日に煮るにかぎる、幸いあたしは天保八の酉、あたしの骸《むくろ》はまだあの井戸の底にあるはずだから、後日《のち》とはいわず即刻《いま》にも引き上げて明日の酉の日の分に入れてみようじゃないか――と。
平兵衛は疑った。人肉|云々《うんぬん》よりも井戸の中に屍体があるということを疑ったのである。が、この新しいおりんにはどこかに冒し難い怪しい気が立ち迷っているので、逆らうこともできず、平兵衛は黙っておりんに随いて戸外へ出た。
おりんの屍体は平兵衛が投げ入れたとおりになっていた。平兵衛はもう驚かなかった。当然《あまりまえ》のことのようにしか思えなかった。新しいおりんの命ずるがままに、古いおりんを引き上げて仕事場に運ぶことすら、彼はかえって異様な歓喜を感じただけであった。おりんも手伝った。二人は、おりんの屍骸の臀部《でんぶ》から少量《すこし》の肉を切り取って明日の捏ねに混ぜることにした。自分自身の一部を手に下げておりんはほほほ[#「ほほほ」に傍点]と笑った。燐薬の作用《はたらき》で、一|週《まわ》りを経ている死人がまるで生きているように新鮮《あざやか》だったことなぞも、平兵衛は頭《てん》から気に留めなかったが、庭の隅を掘って屍の残部《のこり》を埋めるだけの用心は忘れなかった。
翌日の蒲鉾には初めて磯屋の持味が出た。平兵衛自身一切れ試食して何年になく晴々とした。その日も夜とともにおりんが来た。毎晩おりんはどこからともなくやって来た。来るたびに近所の酉年生れの女の名を報《しら》した。酉年の女が頻繁に姿を隠し出したのはそのころからであった。浚って来た女を、平兵衛は井戸へ入れて殺し、燐薬の生気の中に漬けておいては酉の日を待っておりんと二人で料《りょう》って、臀肉を蒲鉾
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