、燐の凝気《こりけ》が燈明の熱に解けて自然《ひとりで》に伸縮《のびちぢみ》して動き出したあの片頬と、猫板の上に遺して行ったおりんの墨跡とが、掻き消すように失くなっていたことだった。
 磯屋の物と言わずすべて蒲鉾を口にした覚えのある江戸中の人の気を察して、藤吉は二人の乾児に堅く口外を戒めた。平兵衛の行方不明は、もう一つの、そしてこれが終いの、日本橋の神隠しとして風評《うわさ》のうちに日が経って行った。磯屋跡の背戸口に、時折堅気に拵《つく》った八丁堀の三人がひそかに誰かの冥福を祈っている図は、絶えて人の眼につかなかったらしい。しかし、いつどこから洩れたものか、何事も茶にしてすまそうとする江戸っ子気質、古本江戸異物牒に左の地口《じぐち》が散見している。
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照降りをしり[#「しり」に傍点]つつしんじょの月が浮く磯平の釜は湯地獄の釜
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 しり[#「しり」に傍点]は臀部《しり》に掛けたもの、しんじょ[#「しんじょ」に傍点]は※[#「米+參」、第3水準1−89−88]薯《しんじょ》であって半平《はんぺん》の類《たぐい》、真如《しんにょ》の月に通ずる。

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