を残りなく教えてたべや、梓《あずさ》の神、うからやからの諸精霊、弓と箭《や》とのつがいの親、一郎どのより三郎どの、人もかわれ、水もかわれ、かわらぬものは五尺の弓、一打うてば寺々の仏壇に響くめり、穴とうとしや、おおそれありや――。」
 足許の地面から拾い上げた巻紙の片《きれ》に、拙《へた》な薄墨の字が野路の村雨《むらさめ》のように横に走っているのを、こう低声《こごえ》に読み終った八丁堀藤吉部屋の岡っ引|葬式《とむらい》彦兵衛は、鶏のようにちょっと小首を傾げた後、元のとおり丹念にその紙切れを畳んで丼の底へ押し込むと、今度は素裸の背中へ手を廻して、肩から掛けた鉄砲笊をぐい[#「ぐい」に傍点]と一つ揺り上げざま、事もなげに堀江町を辰巳《たつみ》へ取って歩き出した。藤倉草履に砂埃が立って、後から小さな旋風《つむじかぜ》が、馬の糞を捲き上げては消え、消えては捲き上げていた。
 文久|辛《かのと》の酉《とり》年は八月の朔日《ついたち》、焼きつくような九つ半の陽射しに日本橋もこの界隈はさながら禁裡のように静かだった。白っぽい街路《みち》の上に瓦の照返しが蒸れて、行人の影もまばらに、角のところ[#「とこ
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