に考えた。
「御用筋が忙《せわ》しくて他町の騒動を外にしていた親分もこれじゃあいかさま出張《でば》らにゃなるめえ。ほい来た奴《やっこ》、それ急げ! 三度に一度あ転《こ》けざあなるめえ!」
 背中で籠拍子を取る。彦兵衛は腹掛を押えた。その中に、丼の底に、巻紙の文状《もんじょう》と一緒に揺れているのは、耳一つと毛髪《かみのけ》とがくっ[#「くっ」に傍点]ついたたしかにそれは――人間の片頬であった。

      二

「仲の町は嘸かし賑うこってげしょう。」
 次の間から勘弁勘次が柄になく通《つう》めたい口をきいた。縁に立って、軒に下げた葵《あおい》の懸崖《けんがい》をぼんやり眺めていた釘抜藤吉。
「葵の余徳よ。なあ、新吉原の花魁《おいらん》が揃いの白小袖で繰り出すんだ。慶長五年の今月今日、畏れ多くも東照宮様におかせられ、られ、られ、られ――ちっ、舌が廻らねえや――られては、初めて西御丸へ御入城に相成った。やい、勘、手前なんざあ文字の学がねえから何にも知るめえ、はっはっは。」
「勘弁ならねえが、こちとら無筆が看板さ。」
 梯子《はしご》売りの梯子の影が七つ近い陽脚を見せて、裏向うの御小間物金座屋の白壁に映って行く。槍を担いだ中間の話し声、後から小者の下駄の音。どこか遠くで刀鍛冶の槌《つち》の冴えが、夢のようにのどかに響いていた。
「親分え。」
 戸口で大声がした。と思うと、葬式彦兵衛がもう奥の間へ通って来た。崩れるように据わったその眼の光り、これはなにか大物の屑が引っかかったらしいとは、藤吉勘次が期せずして看て取ったところ。親分乾児が膝を並べる。
 簀戸《すど》へもたれて大|胡坐《あぐら》の藤吉、下帯一本の膝っ小僧をきちん[#「きちん」に傍点]と揃えた勘弁勘次が、肩高だかと聳やかして親分大事と背後から煽ぐ。早くも一とおり語り終った彦兵衛、珍しく伝法な調子で、
「さあ、親分、これがその神がかりのお墨付――それからこいつが。」と苦しそうに腹掛けを探って、「犬からお貰いした土産物、ま、とっくり[#「とっくり」に傍点]と検分なすって下せえやし。」
 投げ出した紙片《かみ》と肉一片――毛髪の生えた皮肌《はだ》の表に下にふっくら[#「ふっくら」に傍点]とした耳がついて、裏は柘榴《ざくろ》のような血肉の団《かたま》りだ。暑苦しい屋根の下にさっ[#「さっ」に傍点]と一道の冷気が流れる。藤
前へ 次へ
全18ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング