だけのことは洗って来たが、今宵の名月を機《しお》に今度こそは居所なりと突き留めようと、さてこそ、彦兵衛が奥の手は「お後嗅ぎ嗅ぎ」流の忍びの尾行となったのだった。
 明けを急ぐか、夏の夜は早く更ける。お茶漬音頭の流しも消えて、どこかの軒に入れ忘れた風鈴が鳴るころ、河を距てた寝呆け稲荷の方に当ってけんとん[#「けんとん」に傍点]売りの呼び声が微風に靡いていた。
「親分え――お、勘兄哥もか。」
 彦兵衛が帰って来た。縁台を離れて藤吉も溝板の上にうずくまった。三人首を鳩《あつ》めて低声の話に移った。その話がすんだ時、
「やるべえ!」
 藤吉が立ち上った。
「おうさ、当るだきゃあ当って見やしょう。」
 二人も起った。十三夜は満ちて間もない。その月が澄めば澄むほど、物の陰は暗くもなろう。真黒な三つの塊りが川の字形に跡を踏んで丑寅《うしとら》の角へ動いて行ったのは、あれで、かれこれ九つに近かった。
「通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身の夜を込めて――。」
 背後《うしろ》の影が唸った。前なる影が振り向いた。
「勘、われ[#「われ」に傍点]あ常から口が多いぞ。」
「へい。」

      二

 鮨町を細川越中の下屋敷へ抜けようとする一廓が神田代地、そこにいかにも富限者らしい造作《つくり》があって近所の人は一口に因業御殿《いんごうごてん》と呼んでいるが、これこそ因業家主が通名の大家久兵衛が住宅《すまい》。此家《ここ》へお茶漬お艶が、近江屋を虐めた帰り毎夜のように立廻ることを見極めたのは、たしかに葬式彦兵衛が紙屑買いの拾物《ひろいもの》であった。だから、因業が祟っていまだに独身の五十男久兵衛が、女の狂っているのをいいことにして、それこそお茶漬一杯で釣っておき、明日にも自分が表から乗り込んで行って近江屋の身上を取返してやると言いながらあわ[#「あわ」に傍点]よくばお艶の肉体《からだ》を物にしようと企んでいることは、八丁堀にはとうの昔にわかっていた。この久兵衛とお艶とどういう関係《かかりあい》にあるのか、などと改めて四角張るのは野暮の骨頂で、片方が気違いのことだ、順序も系統もあったものではない。ただ、近江屋攻めに油の乗り出した二月ほど前に、近江屋の門口に現れた時と同じようにお艶のほうからぶらり[#「ぶらり」に傍点]と因業御殿へ舞い込んだというだけのこと。
 有名な美人の狂女がこう思いがけなく飛びこんで来たばかりかあなたの口から近江屋へ全資産引渡しの件を交渉《かけあ》ってくれと泣いて頼んで動かないのだから、因業久兵衛、食指むらむら[#「むらむら」に傍点]と動いて悦に入ってしまった。二つ返事で承知《うけが》ってお茶漬を出すとじつによく食べた。その後で手を出すと、どっこい[#「どっこい」に傍点]この方はそう容易くは参らなかった。が、逃げられるほど追いたくなるのがこの道の人情とやら、ことにはなにしろき[#「き」に傍点]の字のこと、まあ急《せ》いては事を仕損じる。気永に待って取締《とっち》めようと、それからというもの、久兵衛は毎晩お艶を引き入れてお茶漬を食わせて口説いてみるが、お艶は近江屋のことを頼む一方、狂気ながらも途端場《どたんば》へ来るとうまくさらり[#「さらり」に傍点]とかい潜るのが例《つね》だった。
「いけねえ。久てき[#「てき」に傍点]まだお預けを食ってやがらあ。」
 神田代地の忍びから帰って来ると、彦兵衛はこう言って舌を出した。鼻の頭を下から擦って勘次は我事のように焦慮《やきもき》していた。
 お艶の身元については二つの論があった。ありゃあお前、番町のさる[#「さる」に傍点]旗本の一のお妾《てかけ》さんだが、殿の乱行を苦に病んでああもお痛わしく気が触れなすったなどと真実《まこと》しやかに言い立てる者もあれば、何さ、札《ふだ》の辻《つじ》辺りの煙草屋の看板娘が情夫《おとこ》に瞞されたあげくの果てでげす、世の娘にはいい見せしめでげす、なんかと斜に片付けて納まり返るしったかぶりもあったが、そんな詮議は二の次としても、何からどうして近江屋へこんな因縁をつけるようになったのか、これも狂気の気紛れと断じてしまえばそれまでだが事実《まこと》近江屋には背《うしろ》めたい筋合は一つもないのだから、狂女の妄念というのほかはないものの、それにしてもこうしつこく立たれては仏の顔も三度まで、第一客足にも障ろうというもの――海老床の腰高障子《こしだか》へ隠居が蝦の跳ねている図を絵いてから、合点長屋と近江屋とは髪結甚八を通して相当|昵懇《じっこん》の仲、そこで近江屋から使者《つかい》が立って、藤吉親分へ事を分けての願掛けとなった次第、頼まれなくてもここは一つ釘抜の出幕だ、親分さっそく、
「ようがす。ほまち[#「ほまち」に傍点]に白眼《にら》んどきやしょう。」
 と大きく頷首いて、お艶を始め因業家主の身辺には、それからひとしお黒い影がつきまとうこととなったのである。
 相も変らず近江屋の前でお艶は唄う。唄いながら行人の袖を惹く。袖を惹いてはこのごろではこんなことを言う。
「妾《あたき》には立派な背後立《うしろだ》てがありますから、この近江屋を今に根こそぎ貰い返してくれますとさ。まま大きな眼で御覧じろ――。」
 この背後《うしろ》立てが大家久兵衛であることは、誰からともなく一時にぱっ[#「ぱっ」に傍点]と拡がった。広い世間を狭く渡る身の上とはいえ、久兵衛の迷惑言わずもがなである。が、乗りかけた船、後へは引かれない。久兵衛、その代り前へ進んで一気に思いを遂げようとした。お茶漬を食べてひらりひらり[#「ひらりひらり」に傍点]と鉾先《ほこさき》を交し、お艶はなおも近江屋一件を頼み込んで帰る。元来《もとより》証文も何もない夢のような話、色に絡んでおだてて見たものの、自業自得の久兵衛、とんだお荷物を背負い込んだ具合で今さら引込みもつかず、ただこの上は遮二無二言うことを聞かせようと胸を擦《さす》って今宵を待っていた今日というこの十三日――待てば海路の何とやらで、これはまたど[#「ど」に傍点]えらい儲け口が、棚から牡丹餅に転げ込んで来た溢《こぼ》れ果報《かほう》。
 昼のうち、それとなく因業御殿に張り込んでいた勘弁勘次は、何を聞いたか何を見たか、いつになくあわてふた[#「ふた」に傍点]めいて合点長屋へ駈け戻ったが、それに何かの拠所《よりどころ》でもあったかして、この夜の彦兵衛の仕事にはぐっ[#「ぐっ」に傍点]と念が入り、あのとおり近江屋から神田の代地、そこから正覚橋の向うへまでお艶を尾けて、引続き藤吉を先頭に、かくも闇黒を蹴っての釘抜部屋の総策動となったのだった。
 町医らしい駕籠が一梃、青物町を指して急ぐ。供の持つぶら[#「ぶら」に傍点]提灯、その灯が小さくぼやけて行くのは、さては狭霧《さぎり》が降りたと見える。左手に聳える大屋根を望んで、藤吉は肩越しに囁いた。
「三つ巴の金瓦、九鬼様だ。野郎ども、近えぞ。」随う二つの黒法師、二つの頭が同時にぴょこり[#「ぴょこり」に傍点]と前方《まえ》へ動いた。

      三

 水のような月の面に雲がかかって、子の刻の闇は墨よりも濃い。鎧扉《よろいど》を下してひっそり寝鎮まった近江屋の前、そこまで来て三つの人影が三つに散った。犬の唸り、低く叱る勘次の声、続いて石を抛る音、後はまたことり[#「ことり」に傍点]ともしない。八百八町の無韻《むいん》の鼾《いびき》が、耳に痛いほどの静寂《しずけさ》であった。
 この時、軒下伝いに来かかった一人の男、忍びやかに寄って近江屋の戸を叩いた。一つ、二つ、また三つ四つ――何の返事もない。時刻が時刻、これは返事がないはずだ。男は焦立《いらだ》つ。戸を打つ音が大きくなる。
「近江屋さん、ええもし、近江屋さんえ。」
 近辺《あたり》かまわず板戸を揺すぶったのがこの時初めてきいたとみえて、
「誰だい? なんだい今ごろ。」
 と内部《なか》から不服らしい小僧の寝呆け声。
「儂《わし》だ。約束だ、開けてくれ。」
「約束? 約束なんかあるわけはないよ。」
 戸を距《へだ》てての押問答。
「お前じゃわからない。御主人と約束があるんだ。待ってなさるだろ、奥へそ[#「そ」に傍点]言って此戸《ここ》開《あ》けてくれ。」
「駄目だよ、世間様が物騒だから閉《た》てたが最後大戸だけは火事があっても開けちゃあいけないって、今夜も寝る前に大番頭さんに言われたんだ。何てったって開けるこっちゃないよ。お帰り。朝おいで、へん、一昨日おいでだ! 誰だいいったいお前さんは?」
「誰でもいい。御主人か大番頭に会やあ解るこった。お前は小僧だろう、ただ取次ぎゃいいんだ。」
「馬鹿にしてやがる。お前は小僧だろってやがらあ。へへへのへん、だ。誰が取次ぐもんか。」
 小僧しきりに家の中で威張っていると、
「何だ、騒々しい、何だ!」
 と番頭でも起きて来た様子。
「あ、大番頭さんだ。」と小僧はたちまち閉口《へこ》んで、「だって、いとも[#「いとも」に傍点]怪しの野郎が襲って来てここを開けろ、開けなきゃどんどん[#「どんどん」に傍点]――。」
「やかましい。怪しの野郎とはなんです。お前はあっちへ引っ込んでなさい――はいはい、ええ、どなた様かまた何の御用か存じませぬが、このとおり夜更けでございますから明朝改めて御来店《おいで》を願いたいんで、へい。」
「あんたは大番頭の元七さん――。」
 戸外の男の息は喘ぐ。
「へえ、さようでして、あなた様は?」
「いや、今日はわざわざお越し下されて恐れ入りましたわい。で、早速ながら彼の一件物のこってすがの、今晩先方へこれこれこうと話をつけましたが、あんたの前だが儂もえらく骨を折らされましたて。が、まあ、とどの詰り、お申入れの一札を書かせましてな、はい、これこのとおりお約言《やくげん》の子《ね》に持って参じましたから――ま、ちょっとこの戸をお開けなすって。」
「何でございますか手前共にはいっこうお話がわかりませんですが――。」
「え?」
「何の事やら皆目《かいもく》、へい。」
「げ、元七どん、しらばくれちゃいけませんよ。老人《としより》は真にする。冗談は抜きだ。」
「ええ念のため申し上げます。当家《こちら》は生薬の近江屋でござい――。」
「ささ、その近江屋さんから今日の午下りに大番頭の元七さんが見えて――。」
「元七と言えば手前でございますが、お店《たな》に唐から着荷があって、今日は手前、朝から一歩も屋外へは踏み出しませんが。」
「えっ、それでは、あの――。」
「何かのお考え違いではございませんか。」
「あっ!」
 と叫んで、男が地団太《じだんだ》踏んだその刹那、程近い闇黒《やみ》の奥から太い声がした。
「元どん、開けてやんな。」
「だ、誰だっ?」
「どなた?」
 内と外から番頭と男の声が重なる。
「八丁堀だ。」と出て来た藤吉。「釘抜だよ。元さん、お前が面あ出さずば納まりゃ着くめえ。俺がいるんだ、安心打って、入れてやれってことよ。」
 この言葉が終らないうちに、男は何思ったかやにわに逃げ出した。こんなこともあろうかと待ち伏せしていた勘弁勘次、退路を取って抱き竦め、忌応《いやおう》なしに引き戻せば、男はじたばた[#「じたばた」に傍点]暴れながら、
「儂はただ、頼まれただけ、両方に泣きつかれて板挾みになったばかり、苦しい、痛いっ、これさ、何をする!」
「合点長屋の親分さんで?」と中からは元七が戸を引き引き、
「どうもこの節は御浪人衆のお働きがいっち[#「いっち」に傍点]強《きつ》うごわすから、戸を開ける一拍子に、これ町人、身共は尊王の志を立てて資金調達に腐心致す者じゃが、なんてことになっちゃあ実《じつ》もっておたまり小法師《こぼし》もありませんので、つい失礼――さあ、開きました。さ、ま、どうぞこれへ。」
 早速の機転で小僧が点《つ》けて出す裸か蝋燭、その光りを正面《まとも》に食って、勘次に押えられた因業家主の大家久兵衛、眼をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]させて我鳴り出した。
「違う、異う、この元七とは元七が違う!」
「何が何だか手前
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