えがのう。」乗り出す藤吉の足許から、
「なあに親分、」勘次が答えた。「彦のこった、大丈夫|鉄《かね》の脇差し――即《つ》かず離れず見え隠れ、通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身は――。」
「しいっ!」
声は近着いてくる。唄の文句は明瞭《はっきり》とは聞き取れないが、狂女お艶から出てこの界隈では近ごろ誰でも承知の狂気節《きちがいぶし》はお茶漬音頭、文政末年|都々逸坊仙歌《どどいつぼうせんか》が都々逸を作出《あみだ》すまでのその前身よしこの[#「よしこの」に傍点]節の直流を受けて、摺竹《すりだけ》の振り面白い江戸の遊《すさ》びであった。歌詞《ことば》に棘《とげ》があるといえばあるものの、根が狂気女《きちがいおんな》の口ずさむ俗曲、聞く人びとも笑いこそすれ、別に気に留める者とてはなかった。
片岡町を左へ松屋町へ出たと見えて、お艶の美音は正覚橋《しょうがくばし》のあたりから、転がるように途切れ途ぎれて尾を引いてくる――。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵《かたき》におうみや
薬かゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶《やつ》れてゆくわいな
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あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
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一つ文句のこの小唄、明暮れこれを歌いながら、お艶は今も夜の巷を行く。白じらとした月明りに罩《こ》もって、それはさながら冥府の妓女《うたいめ》の座興のよう――藤吉勘次は思わず顔を見合せた。拳にも倦《あ》きてか、もう縁台の人影もいつとはなしに薄れていた。
お江戸京橋は亀島町を中心《なか》にして、狂女のお艶が姿を現わしたのはこの年も春の初め、まだ門松が取れたか取れないころだった。鳥追笠を紅緒《べにお》で締めて荒い黄八に緋鹿子《ひがのこ》の猫じゃらしという思い切った扮装《いでたち》も、狂気なりゃこそそれで通って、往きずりの人もち[#「ち」に傍点]と調子の外れた門付《かどづけ》だわいと振り返るまでのこと、当座はたいして物見評判の的にもならずに過ぎたのだったが、ある好奇家《ものずき》がひょい[#「ひょい」に傍点]と笠の下を覗き込んで、「稀代の逸品でげす、拝むだけで眼の保養でげす」などと大仰《おおぎょう》に頭を叩いてからというものは、お艶の名はその唄うお茶漬音頭とともに売り出して、こんな莫迦騒《ばかさ
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