ははっきり記憶えている。
気を喪った与惣次の身柄は覆面の男と先刻の女の手に依って、竹藪深く一軒家の奥座敷へと運び込まれた。
くどくど[#「くどくど」に傍点]と述べる女の言葉で与惣次はわれに返った。古びた十畳の間に、汚れてはいるが本麻《ほんあさ》の夜具を着て寝ている。枕元の鉄網行燈《かなあみあんどん》の灯影にほかならないあの女、道案内の礼事やら、悪漢《わるもの》に襲われて倒れたところを折よく良人《おっと》が来合せてこの家へ助け入れた仔細《いきさつ》をくり返しくり返し語り続ける。その良人というのも出て来てなにくれと懇切に見てくれた。たしかにどこかで見たような顔、そんなような気がするだけで、どこの誰か、果して真個《ほんと》に会ったことのある仁か、与惣次はいっこう思い出せなかった。咽喉が痙攣って物を言おうにも口が開かなかった。口は開いても声をだす術を忘れ果てていた。身体は鉛のように重かった。手の指一本が、とても[#「とても」に傍点]与惣次には動かせないほどだった。
今夜は泊ってゆっくり休んで行くようにと、男も女も口を揃えて言っているらしかったが、その声音がまるで水の底からでも聞こえて来る
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