「親分。」彦兵衛が帰って来た。「ぴったり合いやす。あれは八州屋の足形《あしがた》に違えねえ。」
「深かあねえか。」
「へえ、そう言やあち[#「ち」に傍点]と――。」
「彦、仏を動かしてみな。」
 孫右衛門は優形《やさがた》の小男、死んで自力《じりき》はないものの、彦兵衛の手一つでずず[#「ずず」に傍点]っとひきずり得るくらい。
「重いか。」
「なあに、軽いやね。」
 言いながら彦兵衛がまた一、二尺死骸をずら[#「ずら」に傍点]すと、下から出て来たのは血塗《ちまみ》れの大鉞《おおまさかり》。磨《と》ぎ透《す》ました刃が武者窓を洩れる陽を浴びて、浪の穂のようにきらり[#「きらり」に傍点]と光った。藤吉は笑い出した。
「見ろ。はっはっは、犯人《ほし》あ玄人《くろ》だせ。急場にそこいら探《さぐ》ったって、これじゃあおいそれ[#「おいそれ」に傍点]たあ出ねえわけだ。」
「親分、何か当りでも?」
「そうさな、まんざらねえこともねえが。」
 と藤吉は両手を突いて屍骸の廻りをはいながら、
「臓物《ぞうもつ》の割りにゃあ血が飛んでいねえ。いや、飛んじゃあいるが勢《せい》がねえ。」
 つと藤吉は立ち上った。手の埃りを払って歩き出した。
「彦、来い。もうここにゃあ用はねえ。」
 外へ出ると、勘次が詰まらなそうに立っていた。味噌蔵から勝手口まで長さ二間ばかりの杉並四分板を置いた粘土の均《なら》し、その土の上に、草鞋の跡と女の日和下駄《ひよりげた》の歯形とがはっきり着いている。二つとも新しい。大小裸足の足跡は八丁堀の三人と先刻案内した小僧のもの、藤吉はあたりを見廻して、
「足形が三つあるのう。足駄のは孫右衛門のもんで、こりゃあ表通りから左の路を踏んで蔵へはいってそれなりけり[#「それなりけり」に傍点]と。この女郎の日和はお内儀で、勝手と蔵を一度往来して今あ母屋にいなさることは、これ、跡の向きを見りゃあ白痴《こけ》にもわからあ。もう一つの草鞋《わらんじ》ものは――。」
「へえ、あっし[#「あっし」に傍点]んでげす。」
 と声がして、この時、駒蔵身内の味噌松が流し元から顔を出した。喧嘩っ早い勘次はもう不愉快そうに外方を向いた。草鞋の来た道を蔵の前から彦兵衛は逆に辿って、右手の横町からこの時は坂本町の方へまで尾《つ》けて行っていた。
「おや、松さん。」と藤吉は愛想よく、「稼業柄《しょうべえがら》たあ言い条、とんだ係合いだのう。」
「なあに、見つけた者の御難でね、知ってるこたあ残らず申し上げてお役に立ちてえと、へえ、こうあっし[#「あっし」に傍点]ゃあ思っていますのさ。――さい[#「さい」に傍点]でげす。今の先刻坂本町の巣を出やしてね、いつものとおり味噌売りに歩くべえと、箱取りと仕入れにこの家へ来て、まっすぐに蔵へ行った折り、坂本町から横町へはいるあたりからや[#「や」に傍点]に土が柔かくて、御覧のとおり右手から蔵まであんな足形を印《つ》けやした。へえ、正しくありゃああっしの跡でごぜえます。」
「箱取りに、まっすぐに蔵へ行ったたあ何のこってすい?」
「担ぎの荷箱を蔵へ預けといて、毎朝自身で出してお店へ廻って味噌を仕入れるのが、親分の前だがあっし[#「あっし」に傍点]とここの店との約束でげしてね。」
「なるほど。して、朝お前さんがくるころにゃあ、お店じゃいつも起きてますのかえ? 七つと言やあこちとら[#「こちとら」に傍点]なんかにゃあ真夜中だが――。」
「なんの。きまって長どんを叩起《おこ》しますのさ。」味噌松は他意なく続ける。「それが親分、今朝あ騒ぎだ。なにしろあの暗え中で旦那の体にけつまずいた時にゃあ、さすがのあっし[#「あっし」に傍点]も胆を潰したね。へえ、それからすぐとお内儀を起して蔵へつれてって、小僧二人を親分とこと、こりゃあまた余計なことかもしれねえが、桜馬場へもね、へえ、走らせやしたよ。」
「駒蔵さんさえ見ればすぐ片がつくだろうて。なあ、親分。」
 苦々しそうに勘次が言った。藤吉は答えなかった。地面へ顔を押しつけんばかりに不意に屈《かが》んだ藤吉は、孫右衛門の足跡を食い入るように眺めていたが、
「松さん、昨夜雨の降ったのは――。」
「よくは知らねえが四つ半ごろから八つぐれえまで、夢|現《うつ》つに雨の音を聞いたように記憶《おぼ》えていやす。」
「ふうん。」と藤吉は背を伸ばして、「してみりゃあ、八州屋さんはたしかに四つ半から八つまでの間に帰って来なすったんだ。これ、この足形を見ねえ。歯跡が雨に崩れてよ。中に水が溜ってらあな。どだいこの跡はあまり新奇なもんじゃねえ。草鞋と日和に較べて、深えばかりでだらし[#「だらし」に傍点]がねえのは、後から雨に叩かれたからよ。そう言やあ、蔵の仏もずぶ濡れだったのう。なあ、松さん。」
 そこへ彦兵衛が帰って来た。
「ええ親分、この草鞋の跡は新しいもんでごぜえます。付いてから一時とは経ってはいめえ、坂本町から横町を通って蔵へ来ている――。」
「ありゃあ、彦、松さんの足形だ。」
 藤吉が言った。味噌松は世辞笑いとともに、
「親分、二階へ上ってお神さんに会ってやっておくんなせえ。」
「あいよ。」と藤吉はなおもそこいらを見下しながら、「松さん、お前さんは御加役《おかやく》だ。一緒に考えて下せえよ。やい、勘、彦、手前たちも聞いておけ。――足袋屋じゃねえが、ここに足形《かた》が三種ある。一つあ死人の高足駄で左手から蔵へ、こりゃあ夜中の雨の最中に付いたもの。あとの二つはお内儀の日和と松さんの草鞋で、共に一時前に騒ぎ出した節踏んだとわかる。こちとら[#「こちとら」に傍点]と小僧のは裸足だから苦もねえが、さてはいった足形《かた》ばかりで出た跡のねえのが、のう皆の衆、ちっとべえ臭かごわせんかい。」
「雨の降る前にここへ来てまだ隠れん坊している奴でも――。」
 味噌松が言いかけた。藤吉は横手を拍《う》った。
「そこだっ、松さん。お前はなかなか眼《がん》が利くのう。彦、蔵から母家から残らず塵を吹いてみろ。飛ん出たら声を揚げろ。怪我しめえぞ。」
「あっし[#「あっし」に傍点]は? 親分。」
「勘次。お前は立番だ。俺と松さんとでちょっくらお神を白眼《にら》んでくる。松さんがいりゃあ勘なんざかえって足手|纏《まと》い、そこに立ってろ。」
「へえ。」
「誰も入れるな。」
「ようがす。」
 勘次は不平そうに彼方を向いた。彦兵衛は家探しに蔵へはいった。
「親分、御洗足《おすすぎ》を。ま、泥だけお落しなすって――。」
 味噌松が勝手口から盥《たらい》を出した。が、
「すまねえのう。」
 と言ったきり、藤吉は気が抜けたように立っていた。どこからともなく、泣くようにまた笑うように、ちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と水のせせらぐ音がする、藤吉は耳を傾けた。
「勘。」藤吉が大声を出した。「あの音あ何だ? 水じゃあねえか。」
「あいさ。」と勘次はすまして蔵の前を指しながら、「あれ[#「あれ」に傍点]でがしょう。」
 見ると、幅四寸ほどの小溝が雨水を集めて蔵の根を流れている。藤吉はにわかに活気づいた。
「深えか。」
 勘次は手を入れた。
「浅えや。二寸がものあねえ。」
「どうしてあそこにあんな物が――。」
 藤吉は小首を捻る。味噌松が口を入れた。
「地均《じなら》しの時水が吹きやしてね、で、ああして捌口《はけぐち》を拵えといたといつかも旦那が言ってやしたよ。いつもあ水が一寸くらいで、ぐるり[#「ぐるり」に傍点]と蔵を廻って横町から下水へ落ちてまさあ。」
「勘、底は?」
「へえ、玉川砂利。」
 これを聞くと、別人のように藤吉時、威勢よく泥足を洗いながら、
「松さん、二階だ、二階だ。」と唄うように我鳴り立てた。
「お内儀を引っ叩きゃあ細工《さいく》は解る。勘、呼んだら来いよ。」

      三

「悔みあ後だ。え、こう、御新さん、久松留守の尻が割れたぜ。おっ、なんとか言いねえな。」
 二階の六畳へ通ると、出抜けにこう言って、藤吉はどっか[#「どっか」に傍点]と胡坐をかいた。味噌松は背後に立った。
 手早く畳んだらしい蒲団に凭《もた》れて、孫右衛門女房おみつがきっ[#「きっ」に傍点]となって顔を上げた。七、八にはなっていようが、どう見ても二十三、四と言いたいほどの若々しさ。寝乱れ姿のしどけなく顔蒼ざめた様子も、名打《なう》ての美形《びけい》だけあって物凄いくらい。死んだ主人とは三十近くも齢が違うわりに、未だかつて浮いた沙汰などついぞ[#「ついぞ」に傍点]世間に流れたことはなかった。孫右衛門実母お定の探索《たんさく》の要で藤吉も今まで二、三度会ったことはあるが、こうしてつくづく顔を見るのはこれが初めて。さすがに泣き腫らした眼から鼻へ、いかにも巧者な筋が通っているのを、藤吉は素早く看て取った。帰らぬ良人を待ち侘びて独寝《ひとりね》を辿ったものか――部屋はこぢんまり[#「こぢんまり」に傍点]片づいていた。
「釘抜の親分え。」いきなり味噌松が沈黙を破った。「お神さんの利益にゃあならねえが、思い切って申し上げやしょう。始め、わっちが裏戸を叩いて、大変だ大変だ、旦那が大変だ、って報《しら》せたと思いなせえ。するてえと、起きてたものと見えてお神の声で、なんだえ、松さんかえ、朝っぱらから騒々しい、今行くよ、って言うのが二階から聞こえやした。」味噌松は上手におみつの声色を聞かせた後、「で、わっしゃあすぐと蔵へ取って帰したが、お神はなかなか出て来ねえんで。日和《ひより》を突っかけて姿を見せるまでに、なんだか、莫迦に台所をがたがた[#「がたがた」に傍点]言わせていやしたよ。」
 藤吉は唾を呑んだ。そして、おみつに向き直った。
「旦那は昨夜寄合いかね?」
「いえ、あの、」とおみつは顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を[#「顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を」は底本では「顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こかめみ》を」]押えて、「母さんのことでお組長屋前の親類まで行ってくるが空が怪しいから足駄だけ出せと言って、暮れ六つ打つと間もなくお出かけになりました。」
「そうそう、婆さまの生死《いきじに》も知れねえうちにまたこの仕末だ。ばつ[#「ばつ」に傍点]の悪い時あ悪いもんでのう。」
 藤吉は優しく言った。湿《しめ》やかな空気が流れた。
 おみつの話はこうだった。
 親戚へ行った主人は五つ半過ぎても帰らない。母親の失踪以来相談に更けて泊り込んでくることも珍しくないので、昨夜も別に気に留めずに、独り床を敷いて横になった。が、どういうものか寝就かれず、時の鐘を数えているうちに雨になった模様。ああ、今夜はとうとう帰らないな、もしまた出て来ても彼家《あそこ》なら傘も貸せば人も付けてくれるはず――こう思うとそれが安心になってか、それから、今朝味噌松に起されるまでおみつはぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]眠ったという。
 現場に落ちていたあの足駄は間違いもなく自家から穿いて行ったもの。傘も借りて来たことだろうが――と、おみつは言葉を切った。
「いんや、その傘がねえ。のう、松さん。」
 藤吉が振り返った。味噌松はうなずいた。おみつは争うように、
「でも、まさかあの雨の中を、傘なしで帰る人もござんすまい。」
「お内儀さんえ。」と藤吉は、輪にした左手の指を鼻の先で振り立てながら、
「旦那あ――やったかね?」
「御酒? いいえ、全然不調法でござんした。」
「はてね。婆さまのこっちゃあ豪く気を病《や》んでいたようだのう。」
「ええ、そりゃあもう母一人子一人の仲でござんすから、傍《はた》の見る眼も痛わしいほど――。」
「親分、旦那の傘は?」
 味噌松が口を挾んだ。
「さて、そのことよ。」と藤吉はゆっくりと、「持って帰ったもんなら、御組長屋《おくみながや》と此家《ここ》との道中に、どこぞに落ちてるだんべ。さもなけりゃあ、あんなに濡鼠《ぬれねずみ》になる理由がねえ、と俺あ勘考しやすがね、松さん、お前の推量は?」
「わっちもそこいらだ。そりゃあそうと、親分、出て行った
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