跡がねえんだから犯人はたしかにまだこの屋根の下に――。」
 味噌松は意気込む。藤吉も立ち上った。
「だが、現場は離れた蔵だのに、足形付けずにどうして間を――。」
「板が倒してごぜえましたよ。板が。」
「大きにそうだ。雨の前から来ていて、帰って来る旦突《だんつく》を蔵へ誘入《おびきい》れ、仕事すまして板伝い――か。」
「板伝いにこの母屋へ! 親分、臭えぜ。」
「やいっ。」藤吉はおみつを白眼《にら》めつけた。
「阿魔《あま》っ! 亭主殺しゃあ三尺高え木の空だぞ。立て立たねえかっ!」
「親分、何を――。」
 おみつは不思議そうに顔を上げる。
「白々しい。覚えがあろう。立てっ!」
「すまねえが親分の鑑識《めがね》違えだ。」味噌松が仲へはいった。「ま、考えても御覧なせえ。お神さんの腕力《ちから》であの鉞《まさかり》が――。」
「なに?」
「いやさ、あんなに頭《こつ》が割れるかどうか――。」
「うん。そう言やそうだの。こりゃあ俺が早計《はやま》ったか。」
 呆然として藤吉は腕を拱《こまね》いた。
「ねえ、親分。」と味噌松は低声《こごえ》で、「実のところ、早速に小僧を走らせようとしたら、このお神さんがの、それにゃあ及ぶめえだの、も少し待ってくれのって、へえ、大層《えかい》奇天烈《きてれつ》なあわてかたでしたぜ。足形のねえ工合いと言いこの言草といい、わっちはどうも昨夜降る前から泊込みの野郎があると――。」
「松さん、あまりなことをお言いでないよ。」
 口惜しそうにおみつが白眼《にら》んだ。その眼を見据えて藤吉はただ一言。
「久松留守。」
 俯向くおみつ。藤吉は居丈高に、
「旦那は年齢《とし》が年齢だ。なあ、それにお前さんはその瑞々《みずみず》しさ。そこはこちとらも察しが届くが、それにしても久松留守たあよくも謀《たくら》んだもんさのう。」と一歩進んで、「飛んだ久松の孫右衛門さ。旦那のいねえ夜を合図で知らせて、引っ張り込んでた情人《いろ》あ誰だ? 直《ちょく》に申し上げた方が為だろうぜ。」
「お神さん、もういけねえ。誰だか言いな。よう、すっぱりと吐き出しな。」
 傍から味噌松も口を添える。おみつは唇を噛んだ。間が続く。
 と、この時、梯子段下の板間《いたのま》で一時に起る物音、人声。
「いた、いた。」
 という彦兵衛の叫び。と、揚覆《あげぶた》の飛ぶ響き。
「うぬっ!」と勘次。
 やがて引き出そうとする、出まいとする、その格闘《あらそい》の気勢《けはい》。と知るや、物をも言わずに味噌松は階下へ跳び下りる。
「あれいっ、幸ちゃん――。」
 立ち上るが早いか、おみつは血相かえて降口へ。
「待て。」
 藤吉が押えた。
「待て。よっく落ち着いて返答|打《ぶ》てよ。」
 と死物狂いのおみつを窓際へ引きずって行って、さらり[#「さらり」に傍点]と障子を開ければ鎧の渡しはつい[#「つい」に傍点]眼の下。烏の群が立っては飛び、疲れては翼を休める岸近くの捨小舟は――。
「ほかじゃあねえが、あそこにゃあああ[#「ああ」に傍点]いつも勘三郎がいますのかえ?」
「いいえ、ほんのこの二、三日。」
 と聞くより藤吉はおみつを促して、悠々と階下へ降りて行った。
 台所の板敷に若い男が平伏《ひれふ》している。
 裏通りの風呂屋の三助で、名は幸七、出来て間もないおみつの隠男《かくしおとこ》であった。肌の流しが取り持つ縁で二人はいつしか割りない仲となり、久松留守の札で良人の不在を知らせては、幸七を忍ばせて、おみつは不義の快楽《けらく》に耽っていたのだったが、昨夜も昨夜とて――。
「今朝早く帰るつもりでいますと。」幸七は額を板へ擦りつけて、「夜の明ける前にあの騒ぎなんで。表には小僧衆、裏へ出れば人がいるので、お神さんの智慧で、今までこの揚覆《あげぶた》の下にはいっていました。旦那に代ってお斬りになる分には文句もありませんが、人殺しだけは露覚えのないこと――。」
 おみつも並んで手を突いた。二人は泣声で申し開いた。密通の段は重々恐れ入るが、孫右衛門殺しは夢にも知らない。こう口を揃えて二人は交々《こもごも》陳弁《ちんべん》に努めた。
 味噌松が二人を調べていた。藤吉は黙って見ていた。彦兵衛を呼んで何事か囁いた。彦兵衛は愕いて訊き返した。藤吉が白眼《にら》んだ。
「承知しやした。」
 行こうとする彦兵衛を、それとなく藤吉は呼び停めて、
「在ったら口を割ってこいよ。いいか、口だぞ。」
 と、それから、荒々しく、
「包み隠さず申し立てりゃあお上へ慈悲を願ってやる。なに? やいやい、まだ知らぬ存ぜぬと吐《ほざ》きやがるか。」
 と二人の前へ立ち塞がったが、
「野郎、尻尾を出せ!」
 と喚きざま、突然足を上げて幸七の顔を※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]っと蹴った。おみつが庇《かば》おうとする。おみつを打とうと藤吉が腕《て》を振り上げると、
「親分、奴はもう白状したのも同然、失礼ながらお手が過ぎやせんか。」
 味噌松が出張った。
「そうか。」藤吉は手持不沙汰に、「勘、お前はこの二人についてろい。――ええ、そこで松さん、こりゃあこれでいいとして、ちょっくら裏へ出てみようじゃごわせんか。」
 言いながら不審気《いぶかしげ》な味噌松を先に、藤吉はがらり[#「がらり」に傍点]と勝手の腰高《こしだか》を開けた。

      四

「松さん、こりゃあどうだ。」
 やにわに藤吉は蔵の前の小溝へ立った。素足に砕けて玉と散る水。味噌松はぽかん[#「ぽかん」に傍点]と眺めていた。
「この溝は横町から坂本町へ出ている、なんてお前さん、よく御存じだのう。」
 溝の中から藤吉は続ける。
「つかねえことを訊くようだが、お前さん何貫ある?」
「え?」
「目方のことよ。十八貫はあろう?」
「それがどうした。」
「どうもしねえ。ただ、八州屋は小男だ、十二貫もあったかしら――。松さん、足駄の跡を見ろい。十二貫にしちゃあ深えのう。」
「――――」
 四つの眼がはたと会う。
「十八貫にしたところでまだ深え。」
「――――」
「二つ寄せて三十貫! はっはっはっ、まるで競売《せり》だ。どうだ、松さん、買うか。」
 無言。水の音。
「お前、先刻異なことを言ったのう。」と藤吉は溝を出て、「なんだと? お神さんにあの鉞《まさかり》は持てめえだと? あの[#「あの」に傍点]鉞たあどの鉞だ?」
「う――ん。」
「野郎、唸ったな。え、こうっ、よく鉞へ気がついたのう。」
 二人の男は面と向って立つ。
「顫えるこたあねえや。なあ、松。」藤吉は柔かに、「お前、手先の分際で三尋半《とりなわ》を持ってるってえ噂だが、ほんとか。」
 味噌松はちらり[#「ちらり」に傍点]と背後を見た。藤吉はおっかぶせる。
「箱崎辺りで待伏せして旦那の首を繩で締め仏の足の物を穿いて屍骸を蔵へ運び入れ鉞で脳天を潰したのは、松公、どこの誰だ?」
「お、俺じゃあねえ。」
「現場に血が飛んでねえのは死《めえ》ってる奴を斬った証拠。」
「お、俺じゃねえ。」
「傷が真上に載ってるのも、倒れてる所を切《や》りゃあこそああだ。」
「俺じゃねえってのに!」
「も一つ言って聞かしょうか。八州屋の頸にあの麻糸屑が残ってた。しかも、お前、三州宝蔵寺の捕繩麻だっ!」
「――じゃ、ど、どこを通って逃げたってえんだ? あ、足形が一つもねえじゃねえか!」
「溝!」
「わあっ!」
 と叫んで走り出した味噌松、折柄帰って来た彦兵衛にぶつかれば、両方がひっくりかえる。跳び上った松、彦に足を取られて、た、た、た、た、と鷺踏《さぎと》びのまま機《はず》みと居合いとで逆手に抜いた九寸五分。すかさず下から彦が払う。獲物は――と言いたいが拾って来たらしい水だらけの傘一本。
「勘!」
 藤吉が呶鳴った。
「おう。」
 と飛んで出た御家人崩れの勘弁勘次、苦もなく利腕《ききうで》取ってむんず[#「むんず」に傍点]と伏せる。味噌松は赤ん坊のような泣声を揚げた。彦兵衛は起き上って、
「親分、これ。」
 と傘を出す。
「どうだった?」と藤吉。
「へえ、ありやした。たしかにあった。あれじゃあいくら浚《され》えてもかからねえはずだて。」
「水ん中の船底にぴったり[#「ぴったり」に傍点]貼りついてたろう、どうだ?」
「仰せのとおり。」
 葬式彦兵衛は二つ三つ続けさまに眼瞬《まばた》きをした。
 烏の群から怪しいと見た藤吉が、鎧の渡しへ彦兵衛をやって一番多く烏の下りている小舟の下を突かせると、果して締殺された女隠居の屍体が水腫《むく》み返って浮んで来た。舟底には奇妙な引力があって幅のある物ならしばらく吸いつけておくこと、並びにその舟が久しく使われていないこと、まずこれらへ着眼したのが藤吉の器量と冥利《みょうり》とであった。
 屍骸は河原へ上げて非人を付けてある、と聞き終った藤吉、
「口を覗いたか。」
「へえ麻屑を少し噛んでやした。それから、木綿糸も。浴衣の地かな――?」
 皆まで聞かずに、勘次の押さえている味噌松の両袖を、何思ったか藤吉はめりめり[#「めりめり」に傍点]と※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取った。と、裸かの右腕に黒痣《くろあざ》のような前歯の跡。
「やい、松、往生しろ。」
「糞をくらえ!」
 と味噌松は土の上へ坐り込んでしまった。
 かねがねおみつに横恋慕していた味噌松は、まず邪魔になる孫右衛門の母お定を締め殺して河中に捨て、次に、誰かは知らずおみつに情夫のあることを感づいて眼が眩《くら》み、一挙にして男二人を葬っておみつを我物にしようと、長らく企《たくら》み抜いた末が、昨夜のあの孫右衛門殺しとなったのだった。
 気がつくと、おみつ、幸七、小僧と、それに近所の弥次馬が加わって、勝手元から両|傍《わき》の小路まで人の垣根が出ていた。。
「色男、痛かったか。」
 と藤吉は幸七を引き出して、
「桜馬場の駒蔵さんが見えたら、釘抜からの進物でげすって、この味噌松と屍骸二つをくれてやれ。おうっ、誰か松を押さえていようって者あねえか。」
 鳶の若い者が二、三人出て、勘次の手から味噌松の身柄を受け取った。
「ほい、うっかり忘れるところだった。」と藤吉はおみつへ近づいて、
「この傘は旦那が持ってたもの。松公が河下《しも》へ投げ込んだんだが、それが、お内儀、不思議なこともあったもんさのう、川を上ってお定婆さんの手に引っかかってたってえから、なんと強《きつ》い執念じゃあごわせんか。いや、怖《こわ》やの恐《こわ》やの!」
 耐えきれずに、声を張り上げておみつは哭き崩れる。泥の中で味噌松が呻いた。人々は呼吸を呑んだ。
「行くべえ。」
 藤吉は歩き出した。
「帰って朝湯だ。彦、勘、大儀だったのう。」
 群衆は道を開く。釘抜のように脚の曲った小男を先頭に、五尺八寸の勘弁勘次と貧弱そのもののような葬式彦とが、視線の織るなかを練って行く。
 今は高々と昇った陽に、迷う烏の二羽三羽。その影が地を辷った。
「親分、早えところをやっつけやしたのう。」
「え、ああ。うん、そうさの。」
 と藤吉はもうほかのことを考えていた。
 酔漢《よいどれ》のように呶鳴る味噌松の声が、まだここまで聞えてくる。ぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]、というあの音は、鳶の一人が頬でも張ったか――。
「そりゃあそうと上天気で、神田の祭あ運が好えのう。」
 言いながらかかる露地口、出会頭《であいがしら》に小僧を伴れて息せき切ってくる。
 桜馬場の駒蔵親分。
「おう、こりゃあ。」
「おう、こりゃあ。」



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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