惹いた。鳥子紙を使ってあること、新しく書いたものらしいこと、気にすればこれらも不審の種だったが、なかんずくその書体と筆勢――。
「誰の字《て》だ?」
 紙から眼を離さずに藤吉が訊いた。
「知りません。」
 と小僧は鼻汁《はな》を啜《すす》った。
 泥路《ぬかるみ》に立った裸足の三人は、じいっと久松留守の四字を白眼《にら》んで動かなかった。まだ店を開けない町家続きに、今日一日の晴天《はれ》を告げる朝靄が立ち罩めて、明るい静寂《しずけさ》のなかを、右手鎧の渡しと思うあたりに、時ならぬ烏の声が喧しかった。
「みんな、こう、踏むと承知しねえぞ。」
 露地に印《つ》いた足駄の跡を避けて、小僧に案内させた藤吉は子分二人を引具して家について裏口《うら》へ廻った。
「親分、見当《あたり》は?」
 葬式彦が囁《ささや》いた。藤吉は笑った。
「まあさ、待ちねえってことよ。」

      二

 八州屋孫右衛門は雨に濡れた衣服のまま頭部をめちゃめちゃに叩き毀されて、丑寅《うしとら》を枕に、味噌蔵の入口に倒れていた。赤黒い血糊が二筋三筋糸を引いたように土間を汚しているだけで、激しく争ったと思われる節はあたりのどこにも見られなかった。毛の付いた皮肌《かわ》、饂飩《うどん》のような脳髄《のうみそ》、人参みたいな肉の片などがそこら中に飛び散って、元結《もとゆい》で巻いた髷の根が屍骸の手の先に転がっていたりした。よほど強力の者が、何か重い鋭い刃物でただ一撃に息を絶やしたものらしいことは、目明し藤吉をまたなくても、誰にでも容易に想像された。それほど惨憺《さんたん》たる光景を呈していた。
 蔵の前に、勘次を立番に残して、藤吉と彦兵衛は泥足のまま屍体の傍へ上り込んだ。その足許にある一足の高足駄、彦兵衛は早くもそれへ眼をつけた。
「親分。」
「うん、合わしてみろ。」
 彦兵衛は足駄を持って出て行った。藤吉はしゃがんだ。独言がその口を洩れた。
「雨の中を帰って来たか――三時は経ったな。」
 そして頭部の大傷にはたいした注意も払わずに、仰向加減に延びた仏の頸に、藤吉はじっ[#「じっ」に傍点]と、瞳を凝らした。そこに、たとえば縊《くび》れたような赤い痕が残っていて、なおよくみると、塵のような麻屑が生毛《うぶげ》みたいに付着《つ》いている。藤吉は顔を上げた。その口は固く結ばれていた。その眼は異様に輝いていた。

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