返《こねかえ》すようだった。つい先ごろ、裏に味噌蔵を建てたついでに家の周囲を地均《じなら》ししたばかりなので、八州屋を取り巻いて赤い粘土が畑のようにぼくぼく[#「ぼくぼく」に傍点]うねって、それが雨を吸ってほどよく粘っていた。昨日までの凸凹は真夜中の雨に綺麗に洗われて、平になった土の表面には、家へ向って左手の露地伝いに、まるで彫ったように深い、そしてたしかに三時《みとき》は経ったと思われる足駄《あしだ》の歯跡が、通りから裏口の方へ点々として続いているのが、遠くから藤吉の眼にはいった。
藤吉は振り向いて小僧の足を見た。裸足《はだし》である。急ぎ八州屋の前に立つと、二つの小さな裸足の跡が大戸の潜りを出て、そこの一、二尺|柔土《やわつち》を踏んで一つは左一つは右へ別れたさまが、手に取るように窺《うかが》われる。藤吉は唸《うな》った。
「おうっ、小僧さん、長どんてなあお前より三つ四つ年上で、これも裸足で突ん出たろう。ええおう?」
勘次彦兵衛に挾まれてこの時追いついた小僧は、言葉も出ないようにただ頷首《うなず》いた。
「二人ともでかしたぞ。」
とにっこりした藤吉は、何思ったかやにわに履物を脱ぎ捨てて、
「彦、勘、俺たちもこれ[#「これ」に傍点]だっ!」
「合点だ。」
声とともに二人も地上に降り立った。三人の下足を集めて小僧が提げた。早くも修羅場《しゅらば》と呑み込んだ勘弁勘次は、
「親分、どこから踏み込みやしょう?」
と、麻葉絞《あさのはしぼ》りを鼻の下でぐい[#「ぐい」に傍点]と結んで気負いを見せる。が、藤吉はぼんやり立っていた。勘次も彦兵衛もいささか拍子抜けの気味で、何気なく藤吉の眼を追った。藤吉は八州屋の門柱を見上げていた。
去年の暮れ、お染風という悪性の感冒が江戸中に猖獗《しょうけつ》を極めた折り、「久松留守」と書いた紙を門口に貼り付けて疫病除《やくびょうよ》けの呪禁《まじない》とすることが流行《はや》って、ひところは軒並にその紙片《かみ》が見られたが、風邪も蟄伏《ちっぷく》した真夏の今日までそんな物を貼っておく家はまず一戸もなかった。ところが、この八州屋の、左手小路寄りの大柱にはちゃんと久松留守と書いた鳥子紙《とりのこがみ》が木綿糸で釘から下がっている。剥ぎ忘れたのなら貼りついていべきもの、それが掛外し自在の仕組になっているのがなんとはなしに藤吉の注意を
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