ならぬのと、犬の声の物凄さが、岡っ引彦兵衛の頭へまず不審の種を播いたのである。
手頃の礫《こいし》を拾い集めた彦兵衛は、露草を踏んで近づきながら石を抛って烏と犬とを一緒に追い、随全寺の石垣下へ検分に行った。
そこに、夜来の雨に濡れて、女の屍骸が仰向けに倒れていた。が、彦兵衛は眉一つ動かさなかった。溝の傍に雪駄《せった》の切端しを見つけた時のように、手にした竹箸で女の身体を突ついてみた後、彼は籠を下ろして犬のようにしばらくそこら中を嗅ぎ廻った。そして屍骸の足許の草の根に、何やら小さい光ったものを見出すと、それを大事に腹掛の丼《どんぶり》の底へ納い込んでから、ちょうど横町を通りかかった煮豆屋を頼んで片門前町の目明し提灯屋亥之吉方へ注進させ、自分は半纏の裾を捲って屍骸の横へしゃがんだまま、改めてまじまじ[#「まじまじ」に傍点]と女とその周囲の様子へ注意を向けた。
咽喉を刳《えぐ》られて女は死んでいる。自害でないことは傷口が内部へ向って切り込んでいるのと、現場に何一つ刃物の落ちていないこととで、彦兵衛にも一眼でわかった。もし自刃ならば、切物を外部《そと》へ向けて横差しに通しておいて前へ掻くのが普通だから、自然、痕が外部へ開いていなければならない。それに、強靱な頸部の筋をこうも見事に切って離すには、第二者としての男の力を必要とすることをも彦兵衛はただちに見て取った。いうまでもなく女は何者かの手にかかって落命したものである。とはいえ、辺りにさまで格闘《あらそい》の跡が見えないのが、不思議と言えばたしかに不思議であった。しかし、朝方かけて降りしきったあの雨でそこらに多少の模様がえが行われたとも考えられる。現に、咽喉の切口なぞ真白い肉が貝のように露出《あらわ》れているばかりで、血は綺麗に洗い流されている。
二十歳代を半ば過ぎた女盛りのむっちり[#「むっちり」に傍点]した身体を、黒襟かけた三|条《すじ》縦縞《たてじま》の濃いお納戸《なんど》の糸織に包んで、帯は白茶の博多と黒繻子《くろじゅす》の昼夜《ちゅうや》、伊達に結んだ銀杏返《いちょうがえ》しの根も切れて雨に叩かれた黒髪が顔の半面を覆い、その二、三本を口尻へ含んで遺恨《うらみ》と共に永久《とわ》に噛み締めた糸切歯――どちらかといえば小股の切れ上ったまんざらずぶ[#「ずぶ」に傍点]の堅気でもなさそうなこの女の死顔、はだけた胸に三カ所、右の手に二つの大小の金瘡《きんそう》、黒土まみれに固くなっていてもまだなんとなく男の眼を惹く白い足首と赤絹《もみ》から覗いている大腿のあたり、それらの上に音もなく雨のそぼ降るのを、彦兵衛は眠そうに凝視めていた。
空地に一人据わっているこの見すぼらしい男の姿を、通行人の二人三人が気味悪そうに立って眺め出すころ、煮豆屋から急を聞いた提灯屋の亥之吉は、若い者を一人つれて息せき切って駈けつけて来た。番太郎小屋の六尺棒、月番の町役人もそれぞれ報知によって出張したが、亥之吉始め一同の意見は、要するに葬式彦兵衛の観察範囲を出なかった。何よりも、殺された女の身元不明という点で立会人たちは第一に見込みの立て方に迷ったのである。
詰めかけ始めた弥次馬連を草原内へ入れまいと、仕事師《きおい》が小者を率いて頑張っていた。その中には見知りの者もあるかもしれないから警戒を弛めて顔見せをしてはという話も出たが、事件はとても自分の手に負えないと見た提灯屋は、一つには発見者たる彦兵衛の顔を立てようと、来合せた同心組下の旦那へもひととおり謀った後ただちに八丁堀親分の手を借りることにし、早速彦兵衛を口説いて合点長屋へ迎えの使者に立ってもらったのだった。
三
狭い道路を埋めた群集がざわめき渡った。
勘弁勘次と彦兵衛を引具して尻端折った釘抜藤吉は、小股に人浪を分けて現場へ進んだ。
「お立会いの衆、御苦労様でごぜえます。」
こう言って挨拶した時、彼の短い身体はすでに二つに折れて屍骸の上へ屈んでいた。致命傷ともいうべき咽喉の刀痕へ人差指を突き込んでみて、その血の粘りを草の葉で拭うと、今度は指を開いて傷口の具合いを計った。次に、石のように堅い死人の両の拳を勘次に開かせて何の手がかりも握っていないことを確めた。そして、最後に、ちょっと女の下半身を捲って犯されていないらしいと見届けた藤吉は、
「ふうん。」
と唸って腰を延した。眼を閉じて腕組みしている。
「遠い所をお願え申しまして、なんともはや――。」提灯屋が口を入れた。が、藤吉は返事どころか身動《みじろ》ぎ一つしない。
「此女《これ》の人別がわかりやしてな。」と提灯屋は言葉を継ぐ。「へえ、この先の笠森稲荷の境内に一昨日水茶屋を出したばかりのお新てえ女で。――どこの貸家《たな》かあ知りませんが、身寄りも葉寄りもねえ――。」
と言
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