て来たものらしかった。手近いところに血だらけの出刃庖丁が落ちていた。
「此家《ここ》の助さんの兄貴で栄太という遊人でさあ。お神輿《みこし》栄太ってましてね。質《たち》のよくねえ小博奕打ちでしたよ。いずれ約束だろうが、まあ、なんて死にざまをしたもんだ。」
 傍に立っていた差配の伊勢源が感慨無量といった調子で説明の言葉を挾んだ。この家の主人《あるじ》は杵屋助三郎という長唄の師匠だが、一昨日の暮れ六つに近所へ留守を頼んだまま女房のお銀と甲府在の親元へ遊びに行って不在であった。栄太の死体が納豆売りの注進によって発見されたのは、今日の引明けで、表土間の血溜りから小僧が不審を起したのであった。家は内部《なか》から巌畳《がんじょう》に戸締りがしてあった。それでまず自殺ということに三吉始め立会人一同の意見が一致したわけであるが覚悟の自害とすればなぜわざわざ通りに近い表玄関を選んだか、それに切腹用に供したと思われる刃物が現場から台所まで運ばれていることも、不思議の一つに算《かぞ》えられた。入口で腹を突いた人間が刃物を掴んだまま裏まで這ってくるということはちょっとありそうもなかった。が、夢中で握っていたと
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