足跡らしい泥の印されてあるのがかすかながらも認められた。藤吉は外側に立って指を開いてその寸法を計ると、今度は一尺ほど格子を離れてその地点と格子の泥跡とを眼で一直線に結びつけて、しゃがんで横から眺めていたが
「犯人《ほし》は――。」
と言いかけて勘次の耳を引っ張りながら、
「――小男だぜ。優型の、背丈はまず四尺と七、八寸かな。」
今さらながら呆然として勘次は藤吉の顔を凝視めていた。群集の向うに葬式彦兵衛の顔を見つけると、つかつか[#「つかつか」に傍点]と歩み寄って藤吉は低声でささやいた。
「一足さきへ番屋へ行って三吉に渡りをつけておきねえ。おいらもすぐお前の跡を追っかけるからな。」
が、再び家の中へ引き返した釘抜藤吉は台所の板の間に凝然《じっ》と棒立ちになって、天井を見上げたまま動こうとはしなかった。凍りついたように天井板の一点から彼の視線は離れなかった。そこに、雨洩りの模様に紛れて羽目板の合せ目に遺っているのはたしかに血の拇指の跡であった。
公儀役人の引き揚げた後で番屋はわりにひっそりしていた。煙草の火に炭団《たどん》を埋めた瀬戸の火桶を中に、三吉、伊勢源、それから下っ引彦兵衛と、死んだ栄太と親交のあったという幇間《たいこもち》桜井《さくらい》某《なにがし》が、土間隅に菰を被せた栄太の死骸を見返りながら何かしきりに故人の噂でもしているらしかった。そこへ勘次を伴れて釘抜藤吉は眼で挨拶してはいって行った。
「三、久し振りだのう。」
言いながら彼はすでに菰をはぐって、死体を覗き込んでいた。一同は事新しくその周囲へ集った。不愉快そうな三吉の眼光《まなざし》を受けても、袖の先で鼻の頭を擦《こす》ったまま勘次はけろりと澄ましていた。肉の塊のように焼け爛れた死顔をしばらくみつめていた藤吉は、やにわに死人の袖を二の腕まで捲くり上げながら、背後の幇間を顧みて口から出任《でまか》せに言った。
「この栄太さんの馴染みってのは、たしか仲の町岩本楼の梅の井|花魁《おいらん》だったけのう。」
「なんの、」と幇間は拳を打つような手つきを一つしてから、
「弘法も筆の過り、閉口へいこう。一文字の歌右衛門姐さんと二世を契った仲――。」
皆まで聞かず、藤吉は葬式彦兵衛に命令《いいつ》けた。
「手前吉原まで一っ走りして、その歌右衛門さんとやらに知らせて来い。――それから。」
と彦兵衛の後を追いながら何やら二言三言耳打ちした。その間に勘次は死骸の肌を開いて傷痕を出していた。正面《まえ》へ廻って藤吉はその柘榴《ざくろ》のような突傷を撓《た》めつ眇《すが》めつ眺めていたが、いっそう身体を伏せると、指で傷口を辿り出した。それから手習いをするように自分の掌へ何かしら書いていた。
「出刃でやらかしたってえのかい?」
と三吉を振り返った。三吉はうなずいた。そしてついでに懐中から公儀の始末書状を取り出して見せた。が、それには眼もくれずに、
「丑満《うしみつ》近え子《ね》の刻に、相好のわからなくなるほどの煮え湯を何だってまた沸かしておきゃがったもんだろう。」
死骸を離れながら藤吉は憮然としてこう言ったが、急に活気を呈して、
「勘、手前見たか、あれを。」
「何ですい?」
「とち[#「とち」に傍点]るねえ、天井板の指痕をよ。」
「へえ、見やした。たしかに見やしたぜ。」
「ふうん。」と、藤吉は考えていた。と、差配の伊勢源へ向き直って、
「きっぱり黒白をつけてえのが、あっし[#「あっし」に傍点]の性分でね、天下の公事《くじ》だ。天井板の一枚ぐれえ次第によっちゃ引っぺがすかも知らねえが、お前さん、四の五の言う筋合いはあるめえのう。」
「四の五のなんぞと滅相もない。親分のお役に立つなら、はい、何枚でも――。」
と伊勢源は狼狽して言った。
藤吉は会心らしく微笑した。
「勘、行って来い。」
「合点だ。」
声と共に勘弁勘次はほど近い杵屋の家へ出掛けて行った。
後で藤吉は人々の口から、助三郎夫婦がときどき犬も食わない大喧嘩をしたことや、死んだ栄太は助三郎の実の兄で、ちょくちょく杵屋へ出入りしていたが、穏和な弟とは似ても寄らず、箸にも棒にもかからない悪党であったこと、栄太が自害した一昨日の暮れ早々、助三郎夫婦は女房お銀の実家甲府在へ旅立ちしたことなど、それとなく聞き出したのであった。栄太の自殺が一昨日の真夜中に行われたとすれば、戸外からはいった形跡のない以上、助三郎夫婦の発った時栄太はすでに留守宅にいたはずであった。が、そもそも何のために自分自身の腹を突いたか――。
「甲府の助さんとこへ飛脚を立てずばなるまい。」と、伊勢源が一座の沈黙を破った。
「はっははは――。」
突然藤吉が哄笑した。一同は唖然として彼を見守った。
「まずまずその心配にも当るめえ。」
と彼は面白そうに言って
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