ゃ」
将軍様のさしだす、古びた小さな紙片を、愚楽老人は受け取って、
「フーム、あれほど禍乱の因《もと》となったこけ[#「こけ」に傍点]猿が、ただこれだけの物であろうとは、チト受け取りかねる。のう越前殿、この紙の虫食いの跡を、貴殿はなんとごらんになるかナ?」
「古文書に虫の食ったように見せかけるには、線香で細長く焼いて、たくみに穴をあけるということを申しますが、まさかそんなからくり[#「からくり」に傍点]があろうとも――」
「イヤ、わからぬ。わかりませぬ――」
と愚楽老人は、からだに不釣合いな長い腕を、ガッシと組んで、考えこみました。
「これほど用心をして、大金を隠した初代の柳生、念には念を入れたに相違ない。これはことによると、同じようなこけ[#「こけ」に傍点]猿の壺が、まだほかに、一つ二つあるのかもしれませぬぞ」
「考えられぬことではない」
と沈思の底から呻《うめ》いたのは、八代吉宗公で、
「大切な手がかりを、ただ一つの壺に納めたのでは、紛失、または盗難のおそれもある。戦国の世の影武者のごとく、同じような壺を二つ三つ作り、そのうちの一つに真実の文書を隠しておくということは、これは、ありそうなことじゃわい」
どうやら、三人の話の模様では。
この壺もほんとうのこけ[#「こけ」に傍点]猿かどうか、危くなってきた。
そうすると……。
あの、最初に婿入りの引出物として、伊賀の暴れん坊が柳生の郷《さと》から持ってきたあれ[#「あれ」に傍点]も、果たして本当のこけ[#「こけ」に傍点]猿? もしあれが真のこけ[#「こけ」に傍点]猿の茶壺でないとすれば、本物はまだ柳生家にあるのか?――
無言の三人のうえに、城中の夜の静寂が、重い石のようにおおいかぶさる。
「ま、壺の真偽は第二といたしまして、日光を眼の前に控えて、柳生は今や死にもの狂いのありさまでございますから、御造営に必要なだけの金は、さっそく、それとなく授けますように、お取り計らいを願いたいと存じまする」
越前守の言葉に、吉宗と愚楽は、われに返ったよう。
「ウム、それはそうだ。では、さきほどの案を、取り急ぎ実行するように」
日光着手の日が近づいている今となっては、何よりも、まず財政的に柳生をたすけて、とにかく、御修理に着手させるのが、目下の急務である。
隠してある財産などがあっては、その子孫に、いつなんどき、謀叛骨の高いのが現われて、天下の騒ぎを起こさないともかぎらない。それを防ぐために、財産を吐き出させようと、大金のかかる日光大修営の籤《くじ》を落としたのだけれど。
今は、あべこべに。
将軍様が機密費を出して、それで名家柳生を救わなければならないことになった。
これじゃアまるで、天へ向かって唾をしたようなもので、あの金魚籤で死んだ不幸な金魚が、ざまアみやがれと言ったといいます。
だが、ただ公儀から金がおりたというのでは、柳生も体面上受けとりにくいし、他の諸侯へのきこえもある。
愚楽老人は、せかせかと手をたたいて、お小姓を呼んだ。
「料紙と硯箱、それに、線香を一本持ってきてくださらぬか」
六
それから二、三日した明け方のことです。
麻布林念寺前の、柳生の上屋敷。
その邸内の一角、尚兵館《しょうへいかん》と名づけられた道場に、わざわざ伊賀から下向した壺探索の一隊を引きつれて寝とまりしている高大之進――イヤ、驚きました。
驚いたわけです。
春眠|暁《あかつき》を覚えず……夢うつつの境で、ウトウトとしていた横っ腹を、イヤというほど蹴りつけた者がある。
「ヤッ、何やつ?」
がばとはね起きてみると、ナニ、蹴ったんじゃアない。若い伊賀侍の一人が、何かに驚きあわてて部屋へとびこんでくる拍子に、大之進の胴ッ腹につまずいたんです。
「ナ、何をする」
「何をするじゃアございません。たいへんです。たいへんです! ふしぎなこともあるもので、いま私が、朝早く起きて、庭で……」
と、その言うところは、こうだ。
この若い弟子、いつも恐ろしく寝坊なんだが、今朝にかぎってすこし早起きをして、庭へ出てラジオ体操――じゃアない、木剣を振っておおいに三文のとくを味わおうとしていると、
「これが驚かずにいられますか。あのお庭の根あがり松に、何がぶらさがっていたとおぼしめす、高隊長殿」
「まさか、天人の羽衣でもあるまい」
まわりに寝ていた連中も、ゴソゴソ起き出て、
「首くくりでもブラさがっていたのか」
「何を不吉なことを申す」
若侍は躍起になって、
「天人の羽衣よりも、もっと貴重な品ですぞ、隊長殿。こけ猿の壺に縄がついて、あの根あがり松の下枝に、ひっかかっておるではござらぬか。それが、さわやかな朝風に吹かれて、ブラーリ、ブラリ……」
「寝ぼけたな、貴様」
「夢にもこけ猿を忘れぬゆえに貴公、かわいそうに乱心めされて、さような幻影を見るようにあいなったか」
「こけ猿が松の木などに、ぶらさがっていてたまるものか」
「嘘だと思うなら、出て来て見るのがいちばんの早道だ」
一同はがやがや言いながらその発見者の若侍に付き従って、ゾロゾロ庭先へ立ちおりてみると、高大之進をはじめ、尚兵館の一同、イヤ、驚きました。
驚くわけです。
庭隅の築山のふもと、江戸家老田丸|主水正《もんどのしょう》が、何よりの自慢にしている一本松……。
その梢に、黒い西瓜《すいか》のようにブラリとひっかかっているのは、紛れもないこけ猿の茶壺でございます。
ポカンと口をあけた高大之進、
「ああ、わが輩も、寝てもさめてもこけ[#「こけ」に傍点]猿、こけ猿と思ううちに、かような怪しの幻を見るようになったか」
とつぶやいて、思わず眼をこすったといいますが、それはそうでしょう。何しろ、そのこけ[#「こけ」に傍点]猿のためには、今まで多勢の人間が血を流し、またそのために、いま、若き主君伊賀の源三郎は行方知れず……丹下左膳などという余計者《よけいもの》まで飛び出して、まんじ巴の必死の争いを描きだしているその中心――こけ[#「こけ」に傍点]猿の茶壺が、ぶらりとさがって、見つけた若侍の言い草ではないが、さわやかな朝の微風にそよいでいるのですから……。尚兵館の連中、声もない。
七
「ウーム、皮肉な壺だナ……」
うめいた高大之進、松の木へかけよって、壺をにらみあげながら、
「探すときには姿も見せず、とほうにくれておると、こうして松の木などにぶらさがっている。だが、いったい何者の仕業であろうナ?」
あたりの伊賀侍たちをジロジロ眺めまわしたが、こいつだけは誰にも返事ができない。
とにかく。
おそろしく変わった風景です。茶壺を荒縄で縛りあげて、そいつがブランと松の枝にひっかかっているんですから。
「昨夜深更に、何奴かが忍びいって……」
「しかし、これが真のこけ猿の茶壺とすれば、そやつは、よほどわれわれに好意を持っておる者と思わねばならぬ」
屈強の若侍達が、壺を見上げて、ワイワイ言ってる。何かからくり[#「からくり」に傍点]がありそうで、うっかり手出しのできない気持――。
「おろせ!」
大之進の命令に、一人が、おっかなびっくり背のびをして、そっと壺を、松の根方の芝へ取りおろしました。
「誰かその蓋をあけてみろ」
こんどは一同尻ごみして、誰も手をかける者がない。
「スーッと一筋、怪しの煙が立ち昇ったかと見るまに、空中に、変怪《へんげ》の形をとって、うらめしや伊賀ざむらい……ナンテことになるんじゃないかな」
「世相険悪じゃから、爆弾でも入っているのかもしれぬ」
そんなことを言うやつはありません。
中に勇敢なひとりが、芝生に片膝ついて、壺の蓋をとりにかかった。
「御油断めさるな、おのおの方!」
誰かが、大時代の叫びをあげた。同時に、皆はパッと足《そく》を開き、腰の一刀の柄に手をかけて、居合の構え――これには何者かの深い魂胆があるに相違ないと思うから、ビックリ箱をあけるような緊張だ。
最初五分ほど、そっと蓋をずらして、中をのぞいてみたが、べつに煙も出なければ格別あやしい仕掛けもなさそうなので、また一寸ほど蓋を持ちあげてようすをうかがった。それでも、なんのこともないので、安心してぐっと中をのぞき、
「オヤ! 何もはいっていない……」
「ハテナ、空の壺を、こうして曰《いわ》くありげに当屋敷へ届けたとは――悪戯にしては、あまりにも埒《らち》もない。何か仔細がなくてはかなわぬところじゃが」
何もはいっていないとわかると一同大きに強くなって、ガヤガヤ始める。
「一応御家老へ届けいでずばなるまい」
高大之進はその壺の口をつかんで片手にぶらさげ、庭を横ぎって田丸主水正の居間のほうへと、歩きだした。
ひとりが、あとに落ちていた壺の蓋を拾いあげて、
「高先生! 蓋が――」
「蓋などいらん、捨ててしまえ」
「しかし」
と追いすがって、
「壺についておるものですから……」
「そうか。じゃ、まア、蓋も持って行こう」
めんどうくさそうに受けとった高大之進、その、丸い木の上へ奉書を幾重にも貼りかためた壺の蓋を、グイと懐《ふところ》へねじこんで、片手の壺を大きく振りながら、主水正の居間の外へとやって来た。
「御家老様、まだおやすみですか」
「馬鹿なことを言いなさい、年よりは早く眼がさめて困るものじゃ。さきほどから庭がやかましいようじゃが、何かナ? 小判でも掘り当てたかの?」
八
埋宝のことが絶えず頭にあるものだから、、何かというとすぐ、小判を掘り当てたか……なんて、まるでリュウリック号みたいなことばかり言う。
「ごめんを――」
と大之進は、高縁の階《きざはし》をあがって、つぎの間の障子をあけた。
書院造りの居間。
柳生家江戸家老、田丸主水正は、鼈甲《べっこう》縁の眼鏡を額部《ひたい》へ押しあげて何か書見をしていた経机から、大之進のほうを振りかえった。
「オ、なんじゃ。そんなうすぎたないものを座敷に持ちこみおって……」
と小言をいいかけた主水正、二度見なおして、イヤ、驚きましたネ。
驚くわけです。
夢にも忘れないこけ猿の茶壺……主水正は、操り人形が糸につられるように踊るように、両手を空《くう》に泳がせて、フワフワッとたちあがろうとした。
「こ、これ、とうとう――お壺を、手に入れてくれたか、いや、でかした、でかしたぞ! 大之進」
「いえ、御家老、落ちついてください。何者が、いかなる考えあっての仕業かは存じませんが、昨夜お庭へ忍びこんで、この壺を縄で松の木へぶらさげたやつがあるんです。いま見つけて、大騒ぎをしたうえあけてみましたところが……」
「ウム! はいっておったか?」
「ですから、落ちついてくださいと申しあげるのです。何もはいっておりませぬ」
「ナニ、壺はから……!」
夢みるように、じっと考えていた田丸主水正――すると、です。たちまち、ニッと微笑を洩らしたかと思うと、
「ハハア、そうか」
ここに越前守、愚楽、吉宗公の三人と同じ言葉をつぶやいた田丸老人、きっと高大之進へ眼をすえて、
「蓋がないではないか、これ、この壺の蓋はどうした」
急にあわてだした家老のようすに、大之進もいっしょにあわてて、
「蓋……と。蓋などは、さっき捨ててしまいましたが――」
「ナ、何? 壺の蓋をすてたと? 馬鹿者めッ! 棄てたとて、まだお庭にころがっておろう。早々《そうそう》に拾ってまいれ、痴《たわ》けがッ!」
はッ!――とお辞儀をしようとした大之進、なんだか懐中に硬《こわ》ばった物がはいっているから、フト思い出して、
「あ! ここにございました。手前、受けとって懐中へ入れてまいりましたのを、とんと失念。とんだ粗忽をいたしました」
「言い訳はよい。出しなさい、早く」
こんな壺の蓋なんか、どうでもよさそうなものだのに、お爺さん、年のせいでどうかしてるな――と大之進、心中おかしくてたまらないが、相手が家老ですから、
「中がからっぽで、おまけに蓋がなければ、これこそほんとに身も蓋もない――あ
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