語り顔にチラチラしている。
下流へ行って、大谷川とでも合するのであろう。この崖の裾をめぐって、落ち葉朽ち葉のあいだを、一条のせせらぎが清冽《せいれつ》な音をたてている。
ひとまたぎでとび越せる小川。
だが、ためらう萩乃は、源三郎の部下の一人にしょわれて、一同は川を越した。お藤姐御だけはすましたもので、しゃがんで背をむける一人を、
「おふざけでないよ」
とこづいたまま、白い脚もあらわにピョイととび越して、ほほほと笑ったものだ。
そのとき左膳が、何を見つけたか、水辺にしゃがみこんで、
「なんだ、こんなところに、こんな竹筒っぽうがひっかかっておる」
と、指を冷たい水にぬらして、川岸の水草の根のあいだからつまみあげたのを見ると、籠花活けのおとしらしい竹筒だ。
「なにかと思えば、くだらぬ……」
つぶやいた左膳、そのまま草むらへ投げ捨てた――イヤ、投げ捨てようとして、ふと気がつくと、その竹筒の口に、蝋《ろう》のかたまりがついているではないか!
竹筒の口を、蝋で封じてあるのだ。ハテナ……と、好奇心をそそられた左膳、コツコツと竹のさきをかたわらの立ち木の幹に打ちつけ、蝋をうち落として中を見ると!
「オヤ、文がはいっておるぞ」
「フーム、この上流から流したものらしいな」
と源三郎も、仔細ありと見て、寄ってきた。とりかこむ人々のなかで、心きいた一人が、がんどう提灯を左膳の顔へ、かかげる。
闇に浮かぶ隻眼刀痕の妖面。
「なんだと?」
竹筒の中から取り出した文を、一度黙読した左膳は、ぎょっと顔色を打ち変え、
「われら母娘《おやこ》の者は、ごま堂の人柱に塗りこめられんとして、今この崖の上なる一つ家《や》にとじこめられておる者なり、お救いくださらば、世々生々《よよしょうしょう》御恩は忘るまじく……お蓮、お美夜、とあるぞ」
「ナニ、お蓮? うむ! これはおもしろい。助けてやろう。彼女《あれ》に娘があるとは、知らなんだが――」
うめいた源三郎を先頭に、一行はガサガサと藤蔦《ふじつた》の蔓《つる》につかまり合って、断崖をよじ登りだした。萩乃やお藤姐御まで、かいがいしく裾をからげて。
なんでもいい、人さえ斬れるところなら、どこへでも顔を出したい丹下左膳、もう濡れ燕の目釘《めくぎ》にしめりをくれて、伊賀の暴れん坊とさきをあらそう。
こうして一同が、その、お蓮様とお美夜ちゃんの幽閉されている家へ、裏からなだれ込んだときは……。
家の中には、二人の影はなく。
唖の娘がただ一人、ポツネンとすわったまま、左膳と源三郎へ向かってしきりに日光の町のほうを指さしてはもの言いたげな風情《ふぜい》を示すのみ。
「そうだッ! 護摩堂の壁へ――と、求援の文《ふみ》にあった。これは急がねばまに合うまい」
気づいた左膳がさきに立って、一行はただちに造営奉行所に近い護摩堂へと、かけつけたのだった。
乱闘の場《にわ》……火は、こうして起こったのです。
三
暴風雨《あらし》にまぎれて、求援状を封じこめた竹筒を、お美夜ちゃんに持たして裏山づたい、谷川の流れに投げこんだものの……。
いつ誰の眼に触れて、拾いあげられようという当てもない。
言いようもない心細さのうちに日は容赦なくたつ。同時に、眼に見えない人がきはぐるりと幾重にも、その監禁の家をとり巻いて――。
と、今宵。
その眼に見えない牢格子の扉が、ギイッと音なき音をたててあいたのです。
「サ、お美夜や、もうこうなったら助かりようはありません。たとえどんなことになろうと、あたしとお前は、母と娘として、いつまでも離れないように、一つ壁の中へ塗りこめられるのだから、せめてはそれを喜びにして、いっしょに死んでおくれ、ねえお美夜」
母と娘のきずなをそのままに、人柱として永遠に残ることが、お蓮様には、かえってこのうえもない満足。
人間、死を覚悟すると、すぐあとに幸福感がつづく。
お美夜ちゃんとお蓮様は、手をとり合ったまま、護摩堂の中へ連れこまれたのだったが。
このとき! 十重二十重《とえはたえ》にとり巻く警護の武士が、ドッ! とどよめきだったかと思うと、左膳の濡れ燕が闇にひらめいて!
源三郎にしてみれば、この造営を受け持っているのは兄の対馬守。やいばをふるってたち向かっては、同じ家中の者どもを手にかけねばならぬ。
といって、あわれな母娘《おやこ》が人柱などという、荒唐無稽な迷信の犠牲にならんとしているのを、黙視するには忍びない。
したがえてきた部下三人に、すばやく耳うちをした伊賀の暴れん坊。
「左膳の狼藉をとりおさえるがごとく見せかけて、彼が母娘の者を連れて脱出する、その逃げ道をつくってやれ、よいか。ぬかるナ!」
というわけ。四人はいっせいに抜きつれたが、左膳をとり巻いてやたらに刀を振りまわしながら、護摩堂の中へなだれこむだけで、左膳を斬るでもなく、また、伊賀の藩士たちとやいばを合わせるのでも、むろんない。
ただ、源三郎たちは、付近を一大混乱の渦に巻きこんだだけだ。でも、それで十分。左膳の濡れ燕にかかった伊賀侍、十数名。
白い煙のような護摩堂の奥深く、血刀とともにさまよいこんだ丹下左膳。
そこの荒壁の前に、母娘だき合って失神せんばかりの、お蓮様とお美夜ちゃんを見かけるより早く、
「オイッ! さあ、もう大丈夫だ。良民をとらえて人柱などと、これも、この徳川へのおべっか[#「おべっか」に傍点]か。なんだ、この日光など、私墳《しふん》にすぎぬものを……この丹下左膳が来たからにゃア、かような無道なことは断じてさせぬ」
と、二人をかかえてのがれ出ようとすると、近くのお作事部屋に火があがった。これも、源三郎が一人に命じて、混乱の度を大きくするために、火をはなさせたのだ。
この火事が、はるか霧降りの滝の下の作爺さんの眼に映って、折りからそこへたずねて行ったチョビ安、泰軒居士の二人は、作爺さんとともに、悍馬《かんば》足曳《あしびき》に三人鈴なりの体《てい》、雑沓《ざっとう》の護摩堂付近へ馬を乗り入れたとき、ちょうど群集を斬りはらいながらたち現われた左膳と、バッタリ――。
「おお、お父上!」
とチョビ安は涙声、
「お美夜ちゃんも、無事で!」
「アラ、チョビ安兄ちゃん! お爺ちゃんも来てくだすったの」
「ウム、あぶないところを助かったか、これ、お蓮、お美夜、ここでは話もできんから……」
と、片手に足曳のくつわを取った作爺さんの横顔に、燃えさかる作事部屋の火が、赤かった。
四
騒動にまぎれて、日光の山をくだりかけた一同が、振りかえって見ると、作事部屋の火は大事にいたらずしてすぐ消し止めたらしく、明けはなれようとする夜空に、火映えはどこにも見られなかった。
それから数刻ののちには。
カラッとした秋の朝陽の降る日光街道に、今市の方向をさして急ぎつつある、異様な姿の一行が見られた。
「御好意返上」とだけ、筆太《ふでぶと》に書いた紙を馬のくつわに結びつけて、そのまま足曳《あしびき》を手ばなした作爺さんは、放心状態のお美夜ちゃんとお蓮様の手を引いて……それをとり巻く左膳、源三郎、萩乃、お藤、チョビ安、泰軒たち。
思い出したように、歩《ほ》をとめた泰軒が、
「安|大人《たいじん》、お前は下山してしまっては、なつかしの父上に会えぬではないか」
「オオ、安の父親が知れましたか」
おどりたつ作爺さんの問いに、チョビ安は、
「ウム、おいらの父《ちゃん》は、なんでもこんどの日光造営の竣工式に、紫の衣装をつけて出る人だと聞いて、それを頼りにこの日光まで、わざわざ会いに来たんだけど」
「ナニ。むらさきの衣装をつけて出る人だ?」
と立ちどまって考えこんだ作爺さん、
「フーム、紫の……イヤしかし、まさか――だが、伊賀にゆかりと言うことには……」
思いきったように作爺さんは、
「コレ、安、しっかりしろヨ。お前の父親《てておや》かどうかは知らぬが、竣工の式に紫の衣装をつける人は、ただ一人……造営奉行の柳生対馬守様――と聞いたぞ」
「エッ! すると、それがおいらの父親《ちゃん》!」
うめいたチョビ安は、何を思ったか、眼いっぱいの涙。おどろいたのは源三郎で、もしそれが事実なら、チョビ安は自分の甥《おい》。
「安ッ! 貴様は柳生対馬守の落し胤《だね》でもあるのか。えらいことになったものだな」
と呆然《ぼうぜん》たる左膳へ、チョビ安はすすり泣いて、
「何言ってやんでえ、おいらアうれしくッて泣いてるんじゃアねえや。あたいの父《ちゃん》は大名か。ヘン、なアンだ。お大名の父《ちゃん》なんざあ、このチョビ安兄ちゃんは用はねえんだ。そうわかったら、一度にお座が覚めちゃったい。おいらの父《ちゃん》はやっぱりこのお侍さん。ねえ、お父上、いつまでもお父上でいておくれねえ……むこうの辻のお地蔵さん、ちょっときくから教えておくれ――なんでえ、おらあ大名の子なんかじゃあねえや、トンガリ長屋の安|兄哥《あにい》だい」
ドッとあがる笑いのなかには、言い知れぬ涙が含まれて。
左膳とお藤が、両側からチョビ安の手を――左膳ははずかしがる萩乃の手を取って、源三郎とならんで歩かせました。
泰軒だけは、一人ぽっちの大道せましと、江戸へ江戸へと、一同帰りの旅路に。
作阿弥は、やはりもとのトンガリ長屋の作爺さん。お美夜ちゃんとチョビ安と、母親の本性をとり戻したお蓮様と、楽しいくらしが続くに相違ない。
江戸へはいるすこし手前で、お藤の手を振りきった左膳は、萩乃と源三郎を祝福しながら、煙のごとく消息を絶ったという、伊賀の暴れン坊とは惜しい未勝負のまま。
あの、柳生の大財宝を秘めるというこけ[#「こけ」に傍点]猿《ざる》の茶壺だけは、永遠の疑問符だ。いまだに、どこかの古道屋に、がらくた[#「がらくた」に傍点]といっしょにほうり出されてあるのかもしれないが、一風宗匠なき今日、鑑定のくだしようもない。
この日光造営が終わったとき、愚楽老人は殿中でニヤニヤして、大岡越前守へささやいたと言います。
「とにかく、大団円で結構じゃ。なかなか因縁の多い仕事じゃったが、何しろまあ、めでたく終わって重畳《ちょうじょう》じゃよ」
越前守、クスッと笑って、無言でうなずいた。
[#地から1字上げ]五巻 了
底本:「林不忘傑作選5 丹下左膳(五) 日光の巻」山手書房新社
1992(平成4)年9月20日初版発行
※「三方子《さんぼうし》」と「三方子《さんぽうし》」の混在は、底本通りにしました。
※「唐ケ原」、「程ケ谷」、「歌ケ浜」、「越ケ谷」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:tatsuki
校正:地田尚
2003年2月26日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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