く》の得たものではないと、信ずるところあるもののごとく、玄心斎はそう言って、やっとみなをおさえているのだ。
 ところで、この司馬の屋敷は、門をはいると道が二つにわかれて、一方は板敷の大道場を中心にしたひと構《かま》え、ここに、お蓮様丹波の一党が巣を喰っているのです。
 そして。
 もう一つの道は、そのまま奥庭へ通じて、庭のむこうの壮麗をきわめた一棟――源三郎の留守を守る伊賀の連中が、神輿《みこし》をすえているのはここだ。
 で、道をまちがえたのだ。お露は。
 来てみると、想像していた以上に大きな屋敷である。
 まず、りっぱな御門におどかされたお露は、とみにははいれずに、しばし門の前をいったり来たりしたが、これでは果《は》てしがない……。
「こちらのお嬢さまが、いま自分の家にいる若殿様を慕って、ゆうべからこっそり会いに来ていると知れたら、どんな騒ぎになるだろう。イエ、大騒ぎにしないではおかない」
 萩乃と源三郎のことを思うと、弱いお露が、ぐっと嫉妬で強くなった。スタスタと門をくぐって、数奇《すき》をきわめた植えこみのあいだを、奥のほうへ――。
 もうとうに朝飯のすんだ時刻。
 ほがらかな陽が、庭木いっぱいに黄金《こがね》の雨のように降りそそいで、その下を急ぐお露の肩に、白と黒の斑《ふ》を躍《おど》らす。
 さいわい誰にも見とがめられずに、奥座敷の縁側のそばまで来たお露は、沓《くつ》ぬぎにうずくまるように身をかがめて、低声《こごえ》。
「あの、モシ、どなたかおいでではございませんでしょうか」
「アア、びっくりした!」
 座敷の真ん中に、大の字なりに寝ころんでいた谷大八が、ムックリ起きあがった。

       三

 ものを言うたびに、首を振る。すると、大髻《おおたぶさ》がガクガクゆらぐ。
 これが、谷大八の癖《くせ》だ。
「なんだ、娘。貴様はどこからまいった」
「アノ、わたくしは、葛飾《かつしか》の三|方子《ぽうし》川尻《かわじり》の六兵衛と申す漁師の娘で、お露という者でございますが――」
「ナニ、漁師の娘? それが何しにここへ……誰がここへ通した。門番へことわってきたのか」
「いえ、ただスルリとはいってまいりましたが――アノ、お侍様たいへんなことができましてございます。源三郎様のところへ、昨晩こちらのお嬢様が逃げていらっしゃいまして」
「ナニ? 源三郎様のところへ? コ、コレ、源三郎さまはどこにおいでだ。イヤ、若君にはいずくに……」
「そして、まア、くやしいのなんのって、お二人で膝がくっつきそうにすわって、ほっぺたを突つき合ったり、会いたかったの見たかったのッて、そのいやらしいッたら、とても見ちゃアいられませんの」
「コレコレ、順序を立ててものを言え。漁師六兵衛とやらの娘とかいったな。シテ、源三郎様は、貴様の家においであそばすのか」
「ハイ、お父《とっ》さんが川から助けてきて、それからずっと、わたしの家の裏座敷に、寝たり起きたりしていらっしゃいます」
「ウム、そうかッ!」
 大八ははやりたつ両手で、自分の膝をわしづかみにしながら、
「して、昨晩その源三郎様のもとへ、萩乃さまが会いにおいでになった、と申すのだな?」
「ハイ、あの丹下様という、隻眼隻腕の怖《こわ》らしいお侍さんにつれられて――」
 突然、突っ立った谷大八、廊下のほうへ向かって大声に、
「オイ、玄心斎どの、イヤ、皆の者、殿のお隠れ家《が》が判明いたしたぞ」
 と呼ばわりますと、今まで隣室の大広間で、ワイワイゆうべの騒ぎを話題にしていた一同は、玄心斎を先頭に立てて、なだれこんできた。
「ナニ? そうか。イヤそうだろうと思った。伊賀の暴れん坊とも言われるあの若君にかぎって、丹波などの奸計《かんけい》におちいるお方ではないのだ。それはめでたい、めでたい。すぐさまお迎えに!」
「そうだ、お迎えだ! お迎えだ!」
 こうなると、知らせてくれた三|方子村《ぼうしむら》のお露は第一の殊勲者、伊賀侍の眼には、救いの女神とも映るので。
「婦人の身をもって、早朝から遠路まことに御苦労でござりました。サ、サ、まずおあがりなされて」
「コレ、大恩人じゃ。粗相があってはならぬぞ。お座蒲団を持て。誰かある、お茶を――」
「はッ、粗茶ながら、ひとつお口湿《くちしめ》しを……」
 と急に、下へもおかぬもてなし。
 何が何だかわからないお露、手を取らんばかりに引き上げられて、床の間の前の上座へすわらせられてしまった。
 きっと騒動が持ち上がるに相違ないと、それを楽しみに、駈け込み訴えのように飛んで来たのに、その目算《もくさん》はガラリはずれて、一同は涙ぐむほどの感謝ぶりだ。
「では、さっそく貴殿方《きでんがた》へ出向いて、源三郎様と萩乃さまをこちらへお迎え申す。殿がお帰りになれば、またお言葉も下《さ》がるであろうから、お露どのと申したナ、なにとぞ貴殿は、それまでこちらにごゆるりと御休息あって――」
 お露はポカンとしながら、玄心斎、大八ら、五、六人のおもだった者が、にわかのしたく、あわてふためいて邸《やしき》を出て行くのを、ぼんやり見送っていた。

       四

 人間は、思うこと意のごとくならず、心細く感ずる瞬間に、本心にたち返るものだ。
 今のお蓮様《れんさま》がそうである。
 故司馬先生の在世中から、代稽古|峰丹波《みねたんば》とぐる[#「ぐる」に傍点]になって、この不知火《しらぬい》道場の乗っ取りを策してきた彼女、それからこっち手違いだらけだ、策動にも、気持のうえにも。
 第一に、義理ある娘萩乃の婿として乗り込んできた伊賀の暴れん坊に、お蓮様が横恋暴。道場も横領したいし、源三郎も手に入れたいし……これでは、お蓮様の鋭鋒《えいほう》もすっかりにぶってしまって、峰丹波の眼から見ると、はがゆいことばっかりなのはむりもない。
 丹波もお蓮様も、柳生源三郎などはどうでもいいのだった。それよりも、彼が婿引手として持ってくる柳生家重代の秘宝[#「秘宝」に傍点]、こけ猿の茶壺をねらって、壺を手に入れたうえで源三郎を排斥しようとしたあの運動が、最初から、いすかのはしと食いちがって……。
 が、なんといっても源三郎を恋しはじめたのが、お蓮様にとって、思いがけない自己違算の第一歩。
 ここは納戸のかげの、ちょっと離れた隠れ座敷です。
 軒も暗むまでに、鬱蒼と茂った樹木が、室内いっぱいにうすら冷たい影を沈ませて、昼ながら畳の目も読めないほど。
 木の葉の余影で、人の顔も蒼く見える――この頃ここが、ひとりものを考えるときのお蓮様の逃避所になっているのだ。
 だが、
 いまこの部屋の真ん中にぽつねんとうなだれているお蓮様の横顔が死人のごとく蒼白いのは、木々の照り返しのためだろうか。
「まだ死骸は出ないけれど、とても生きていらっしゃろうとは思えない」
 敵であるはずの源三郎……彼に対して恋心をいだいたばっかりに、丹波と二人でしくんだせっかくの芝居はいまだにらちがあかない。
 あのにくらしい、慕わしい伊賀の暴れん坊!
「丹波と申しあわせて、何度か殺そうとしたけれど、そのたびに自分は、命乞いをしたくなったっけ――」
 最後に、あの穴の中におとしこんで、三方子川の水を引いてせめ殺した……。
 お蓮様は、ぞっと身ぶるいをして、
「ああ、ほんとうにかわいそうなことをした」
 あの白衣《びゃくえ》の浪人が暴れこんで、道場の跡目に直《なお》ろうとしていたまぎわの、峰丹波にじゃまを入れ、多くの門弟を斬ったのみか、萩乃をつれて消えうせた。あの騒ぎなどは、お蓮様の心のどこにもないのだった。それはみんな自分になんの関係もない、遠い国の、しかも、大昔の出来ごととしか思えないほど、彼女の胸は、源三郎に対する悔恨でいっぱいなのだ。
「ああ、もうなんの欲《よく》も得《とく》もない。源様さえ生きていてくだすったら……」
 司馬道場、峰丹波、それらへの興味はすっかりなくなって、この頃のお蓮様は、まるで別人のように、うち沈んでいるのである。
 萩乃なぞ、あの片腕の浪人にひっさらわれて、どんな目にでもあうがいい。
 今も今。
 無意識にそうひとり言《ごと》を口にしながら、お蓮様が、きっと、血の気のない唇をかみしめたときです。
 故十方斎先生は、此室《ここ》で皆伝《かいでん》の秘密の口述《くちず》をしたもので、大廊下からわかれてこっちへ通ずる小廊下の床《ゆか》が、鶯張《うぐいすば》りになっている。踏《ふ》むと音がするんです。
 忍んで来ることができない。盗み聞きは不可能。
 今そのうぐいす張りの細廊下がキューッとふしぎな音をたてて鳴いた、人の体重を受けて。
「誰です、そこにいるのは?」
 お蓮様は低声《こごえ》にとがめた。
「誰だときいているに、誰? 何者です……」

       五

「誰です」
 お蓮様は、繰り返した。
 鶯張りの板がきしんで、それに答えるように鳴るだけ……返事はない。
 舌打《したう》ちしたお蓮さまは、ツと立って、障子をひらいた。
 丹波《たんば》である――峰丹波が、ノッソリと突っ立っているのだが。
 その顔をひと眼見たお蓮様、あっとおどろきの叫びをあげた。
 血相をかえた丹波、右手を大刀の柄《つか》にかけて、居合腰《いあいごし》で、部屋の外の小廊下に立っているではないか。
「マア、おまえ! どうしたというのです、わたしを斬ろうとでも……」
 それには答えず、丹波はハッハッとあえぎながら、
「どこにいます。どこにいます?」
 そう言いながら、眼を室内に放って、四|隅《すみ》をにらみまわすようす。
 および腰に体《たい》をひねって、今にもキラリと抜きそう……ただごとではない。
「どこにいる、今たしかに、この座敷の中で彼奴《きゃつ》の声がしましたが」
「どこにいるとは、誰がです。あいつとはエ?」
 丹波の剣幕におどろき恐れて、お蓮様は一歩一歩、一隅へ下がりながら、ふと思った――峰丹波、乱心したのではあるまいか、と。
 が、そうでもないらしく、丹波は大刀を握りしめたまま、じっとお蓮さまをみつめて、
「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」
「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で……」
 沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとり言《ごと》をもらしていたことは、彼女自身気がつかない。
 もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇《よいやみ》が、波のように、そこここのすみずみから湧《わ》きおこってきている。
 どこか坂下《さかした》の町家《ちょうか》でたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木《ひょうしぎ》の音《ね》。
 やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グット刀《とう》をおし反《そ》らした。
「ハテ、面妖《めんよう》な! いまたしかにどこかで、アノ、源三郎――伊賀の暴れん坊の笑い声が、響いたような気がしましたが」
 何やらゾッとするのをかくして、お蓮様はあでやかに笑った。
「ホホホ、仏様《ほとけさま》が笑うものですか、気のせいですよ――しじゅう気がとがめているものだから」
「それはそうと、お後室《こうしつ》様、あの丹下左膳とやらは、萩乃様をおつれして、いったいどこへまいったのでござりましょうな」
「そんなことはどうでもいいじゃないの。わたしはなんだか、もうもう気がふさいで……」
「ハッハッハッハ、それは、お一人でこんなところにこもって、何やかやともの思いをなさるからじゃ。サ、あちらへまいりましょう」
 と手を取らんばかり。
 丹波はお蓮様に従って、長い渡り廊下を道場のほうへ。
 残影で西の空は赤い。庭にも、もう暮色が流れて、葉末をゆるがせて渡る夕風《ゆうかぜ》は、一日の汗を一度にかわかす。
 と、ヒョイと見ると、その庭におり立って、手桶の水を柄杓《ひしゃく》で、下草や石|燈籠《どうろう》の根に、ザブリザブリとかけてまわっ
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