名誉じゃ。イヤ、眼ざわりになる。じつにどうも、古いきたない壺だナ」
 と、変なことを言いながら、平然として、上り框《がまち》の屑竹をかえりみ、
「竹さん、貴公、どうしてこの壺を手にいれられたかな?」
 また叱られるのかと、屑竹はビクビクしながら、
「ヘエ、まったくどうも、こぎたねえ壺で、申しわけございません」
「イヤ、そうあやまらんでもよろしい。どこで、この壺をひろってこられたか」
「いえ、ひろってきたわけではないので。駒形の高麗屋敷の、とある横町を屑イ、屑イと流していますと、乙《おつ》な年増が、チョイト屑屋さん……」
「コレコレ、仮声《こわいろ》は抜きでよろしい」
「恐れ入ります。すると、その姐さんが、これはあまりきたねえ壺で、見ていても癪《しゃく》にさわってくるから、どうぞ屑屋さん、無代《ただ》で持って行っておくれと――」
「駒形の高麗屋敷?」
 と泰軒は、瞬間、真剣な顔で小首をひねったが、すぐ笑顔にもどり、
「イヤ、そうであろう。誰とても、このよごれた壺をながめておると、胸が悪くなる。こんな不潔な壺を長屋へ置くことはできん。竹さん、わしはこの壺をもらっていって、裏のどぶッ川へ捨てようと思うが、異存はないであろうな?」
「異存のなんのって、どうぞ先生、お持ちなすって、打ちこわすなり、すてるなり……ふてえ壺だ」
 と竹さん、母親のおかげで、泰軒先生に叱られたうっぷんを、土間の茶壺にもらしている。
「では、これなる不潔な壺、ひっくくってまいるぞ」
 泰軒先生は笑い声を残して、その壺を気味悪そうにさげながら屑竹の土間から一歩路地へふみ出たが。
 同時に、その表情《かお》は別人のように、緊張した。
 長屋の洩れ灯に、だいじそうにかかえた壺をうち見やりつつ、
「こけ猿よ、とうとう吾輩《わがはい》の手に来たナ。お前は知らずに、世にあらゆる災厄を流しておる。サ、もうどこへもやらんぞ、アハハハハハ」

       六

「わしは、日夜何者か見張りのついておるからだだ。今宵一夜といえども、この壺を手もとに置くことはできぬ。それに、待っておる者に渡して、はよう喜ばしてもやりたいし――」
 ひとりごちた泰軒は、壺をさげて作爺さんの家へもどりながら、とほうにくれたのである。
 というのは。
 誰にこの壺を持たしてやろう?
 作爺さんは、いつぞやの病気以来、足腰《あしこし》の立たない人間になってしまった。はって、家の中のことだけはできるけれど。
 とつおいつ思案して、路地をぶらぶら歩いてくるとたん。
 とんがり長屋の角に、一丁の夜駕籠がとまったかと思うと、
「代《だい》は今やる。ちょっと待ってくんねえ」
 例によって大人《おとな》びた幼声は、まぎれもないチョビ安。
 とんぼ頭を垂れからのぞかせて、駕籠を出るが早いか、眼ざとく路地の泰軒先生を見つけたとみえて、
「オウ、お美夜ちゃんとこの居候《いそうろう》じゃアねえか」
 バタバタかけよって、
「オイ、イソ的の小父《おじ》さん、駕籠賃をはらってくんな。酒代《さかて》もたんまりやってな」
 と呼吸《いき》をはずませている。
 泰軒先生は、星の輝く夜空を仰いで、わらった。
「ワッハッハ、子供か大人かわからねえやつ……貴様は、あの丹下左膳の小姓であったナ」
「ウム、その父上左膳のことで来たんだ。とにかく居候の小父ちゃん、銭を出して、あの駕籠屋をけえしてくんなよ」
 だが、それはむりで、泰軒先生にお金があれば、左膳に右手がある。
 しかし、血相を変えているチョビ安のようすが、ただごとでないので、泰軒先生の一声に応じ、長屋の誰かれが小銭を出しあって、チョビ安の駕籠賃をはらってやった。
 この駕籠は。
 チョビ安、さきごろからこのお美夜ちゃんの家にいる泰軒先生を思い出して、この場合、その助力を借りようと思いたつが早いか、あの司馬寮の焼け跡から、通りかかった辻駕籠をひろい、一散にとばしてきたもので。
 ふところに小石を入れてふくらまし、
「金はこのとおり、いくらでも持っている。酒代も惜しみはせぬぞヨ」
 などとチョビ安、例の調子で、ポンと胸をたたいたりして見せたものだから、子供一人の夜歩き、駕籠屋はたぶんにいぶかりながらも、ここまで乗せて来たのだった。
「それで小父ちゃん、おいらが、その、父上の落ちた穴のまわりにうろついていると、夜になって、町人やら百姓のかっこうをしたやつらが、鋤《すき》や鍬《くわ》を持ってやってきて、おいらを押しのけて、ドンドン穴を埋めようとするじゃアねえか。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》、あたいはスタコラ逃げ出して、駕寵でここへとんできたわけだが、もう穴は埋まったに相違ねえ。ねえ小父ちゃん。お前はとっても強い人だって、丹下の父上が始終《しじゅう》言っていたよ。どうぞ後生だから、おいらといっしょに現場へいって、父上を助けておくれでないか。よウ、よウ! 拝むから」
 小さな顔を真っ赤に、涙を流して頼むチョビ安を、じっと見おろしていた泰軒居士、
「ナニ? 左膳が生きうめに? それは惜しい。使いようによっては、使える男だ。よし! 心配するな。小父ちゃんが行って助けてやろう」

       七

 けれど、この壺である。
 こけ猿の茶壺を片手に、蒲生泰軒、考えこんでいると、それに眼をつけたチョビ安、頓狂声《とんきょうごえ》をあげて、
「ヤア、あたいと父上が、一生懸命にまもってきた壺。こないだ父《ちゃん》が、どこからか持ってきたのに、どうしてここにあるんだい」
「シッ! 大きな声を出すな。この壺は、それとは違う」
「イヤ、同じ壺だ。あたいには、ちゃんと見おぼえがあらア」
「これ、この壺のことをかれこれ申すなら、左膳を助けに行ってはやらぬぞ」
「アラ、チョビ安さんだわ。チョビさんだわ」
 声を聞きつけたお美夜ちゃんが、家から走り出て来て、
「安さん! あんた、まあ、よく帰ってきたわねえ」
「オウ、お美夜ちゃんか。会いたかった、見たかった」
 なんかとチョビ安、いっぱしのことを言って、お美夜ちゃんの手をとろうとすると、ハッと何事か思いついた泰軒先生、
「コラコラ、チョビ安とやら、ただいまはそんなことを言うておる場合ではあるまい。生きうめになった丹下左膳を助け出しに……」
「オウ、そうだ! お美夜ちゃん! いずれ、つもる話はあとでゆっくり――小父ちゃん! さあ、行こう」
「待て!」
 と泰軒先生、お美夜ちゃんのそばにしゃがみこんで、
「今夜はお美夜ちゃんにも、ひと役働いてもらわねばならぬ」
 と、何事か、そっとその耳にささやけば、お美夜ちゃんは、かわいい顔を緊張させて、しきりにうなずいていた。
 それからまもなくだった。
 二組の人影が、このとんがり長屋の路地口から左右にわかれて、漆《うるし》よりも濃い江戸の闇へ消えさったのだが……。
 その一つは、泰軒先生をうながして、一路穴埋めの現場《げんじょう》へいそぐチョビ安。
 もう一つの小さな影は。
 大きな風呂敷でこけ猿の茶壺をしっかと背負ったお美夜ちゃん、淋しい夜道に、身長《せい》ほどもある小田原提灯をブラブラさせて、一人とぼとぼ歩きに歩いた末。
 生まれてから、こんなに遠く家をはなれたことのないお美夜ちゃん。
 しかも、夜中。
 両側の家は、ピッタリ大戸をおろして、犬の遠吠えのみ、まっくらな風に乗ってくる。作爺さんは足がきかないので、お役にはたたず、朝まで待てない急な御用ときかされて、怖いのも、淋しいのも忘れたお美夜ちゃんは、背中にしょったこけ猿が、疲れた小さなからだに、だんだん重みを増してくるのをおぼえながら、いくつとなく辻々を曲がり、町々をへて、やがて来かかったのは桜田門《さくらだもん》の木戸。
 番所をかためている役人が、驚いて、
「コレコレ、小娘、貴様、寝ぼけたのではあるまいな。そんな物をしょってどこへ行く?」
 六尺棒を持ったもう一人が、そばから笑って、
「おおかた、引っ越しの手伝いの夢でも見たのであろう」
「いいえ!」
 とお美夜ちゃんは、ここが大事なところと、かわいい声をはりあげ、
「あたしね、南のお奉行様のお役宅《やくたく》へ行くんですの。とおしてくださいな」

       八

「オウイ、ガラッ熊! 鳶由《とびよし》ッ!」
 真夜中のトンガリ長屋に、大声が爆発した。
 声は、まるでトンネルをつっぱしるように、長屋のはしからはしへピーンとひびいてゆく。
 叫んだのは、この長屋の入口に巣をくって、口きき役を引き受けている石屋の金さん……石金《いしきん》さん。
 名前だけでも、えらく堅そうな人物。
 その堅いところが、このとんがり長屋の住民の信用をことごとく得て、まず、泰軒先生につぐ長屋の顔役なのだ。
 今。
 その石金さんが、あわてふためいて路地を飛び出して、こうどなったのだからたまらない。
 まるで兵営に起床|喇叭《らっぱ》が鳴りひびいたように、ズラリとならぶ長屋の戸口に、一時に飛び出す顔、顔、顔。
 ガラッ熊は、まっ裸の上に印ばんてん一枚引っかけて。
 鳶由《とびよし》は、つんつるてんの襦袢《じゅばん》一まいのまま。
 そのほか、灰買いの三吉。
 でろりん祭文《さいもん》の半公《はんこう》。
 傘《かさ》はりの南部浪人《なんぶろうにん》、細野殿《ほそのどの》。
 寝間着《ねまき》の若い衆、寝ぼけ眼《まなこ》のおかみさん、おどろいた犬、猫まで飛び出して、長屋はにわかに非常時風景だ。
 寝入りばなを石金の濁声《だみごえ》に起こされて、一同、何が何やらわからない。
「相手は誰だ、相手はッ?」
「なんだい、お前さん、そんな薪《まき》ざっぽうなどを持ってサ」
「や! 喧嘩じゃあねえのか」
「半鐘《はんしょう》が鳴らねえじゃねえか。火事はどこだ」
「いや、火事でもない。喧嘩でもない」
 長屋の入口につっ立った石金は路地を埋める人々へ向かって、大声に、
「オウ、おめえら、このごろすこしでも、この長屋が住みよくなり、また、困ったことがありゃア、持ち込んで行けると思って安心していられるのは、いったいどなたのおかげだか、わかってるだろうな」
 路地いっぱいの長屋の連中、ガヤガヤして、
「泰軒先生だ」
 と、いう鳶由《とびよし》の声についで、
「そのとおり! 泰軒先生は、おれたちの恩人だ」
「泰軒先生あっての、トンガリ長屋だ」
 みな大声にわめく。
「そこでだ――」
 群衆へ向かって話しかける石金の足もとへ、心きいた誰かが、横合いの芥箱《ごみばこ》を引きずり出してきて、
「サア、これへ乗っておやりなせえ、声がよく通るだろう」
 石金はその芥箱のうえに立ちあがって、
「オイ、その大恩人の泰軒先生が、いま眼の色を変えて、向島のほうへすっとんでいらしった」
 と、演説をはじめた。
 期せずして、深夜の長屋会議の光景を呈《てい》している。
「この間まで、作爺さんの隣家《となり》に住んで、おれ達の仲間だったチョビ安が、先生を迎えに来たのだ。なにやらただならぬ出来事らしいことは、チラと見た先生の顔つきで、おらア察したんだ。先生と安の話から、渋江村《しぶえむら》の司馬寮《しばりょう》の焼け跡というのを小耳にはさんだが、そこに何ごとかあって、先生はとんでいったものとみえる。おめえらも、トンガリ長屋と江戸にきこえた連中なら、よもや先生を見殺しにゃアしめえナ」

       九

 真夜中の住民大会。
 塵埃箱《ごみばこ》の上に立ちあがった委員長石金さんの舌端《ぜったん》、まさに火を発して、
「おれたちがこうしていられるのも、泰軒先生のおかげだと思やあ、これから押しだしていって、先生に加勢をするのに、誰一人異存のある者はあるめえ」
 ワーッとわいた群衆の叫びのなかに、奇声で有名なガラッ熊のたんか[#「たんか」に傍点]がひびいて、「ヤイ、石金のもうろく親爺《おやじ》め、オタンチンのげじげじ野郎め、わらじの裏みてえなつらアしやがって、きいたふうのことをぬかすねえ」
 イヤどうも、こういう、字引にもない言葉を連発する段になると、ガラッ熊、得意の壇場《だんじょう》だ
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