るで最期の宣告をくだすように、その川底が破れ落ちたのである……すさまじい勢いで。
 土砂と川水とが、一度にドッと落ちかかったのだが、そのあおりで流れ落ちる水に巻かれながら、左膳は無意識に三方子川へ浮かびあがったのである――たった一つの左腕に、ぐったりとなっている源三郎のからだを、しっかり抱きかかえたまま。
 これが最期と思ったのが、かえって、生へひらく唯一の道だったのだ。
 流れただようまも、左膳は源三郎をはなさなかった。この家の親爺の六兵衛が、夜の川釣りに、その下流に糸を垂れていて、浮きつ沈みつしてくる二人を見つけるが早いか、近所の者の手を借りて舟を出したのである。
 救い上げたときは、左膳も源三郎も、すっかり意識をうしなっていた。隻眼隻腕の異様な浪人姿と、由緒《ゆいしょ》ありげな美男の若侍と今夜の夜釣りには、ふしぎな獲物があったものだと、六兵衛はそのまま、二人をこの自宅に運びいれて、まず、濡れた着物を着かえさせ、一晩ねんごろに看病して、……サテ、この朝である。
「お同伴《つれ》はまだ気を失っておるようじゃの。まあ、こんなところだが、ゆるゆる逗留《とうりゅう》して、からだの回復をお待ちなせえ」
「オオオ、そうだ。こけ猿――ウウム、こけ猿を……!」
 と、思い出したように、左膳がうなった。

       六

 引き潮、満ち潮……。
 港の岸に立って、足もとの浪を見おろす人は、その干満の潮にのって、いろいろの物が流れよっているのを見るであろう。
 緒《お》の切れた下駄、手のとれた人形、使いふるした桶《おけ》、など、など、など……そのすべてが、人間の生活に縁の近いものであることが、いっそう奇怪な哀愁感をよぶ。
 港の潮は、何をただよわしてくるかしれない。
 大江戸は、人間の港なのだった。
 海に、港に、潮のさしひきがあるように、この大江戸にも、眼に見えない人間のみち潮、ひき潮――。
 お美夜ちゃんという小さな人間の一粒が、こけ猿の壺をしょって飛ぶ鳥を落とすお奉行大岡越前守様のお前に現われたのも、その人間の港の潮のなす、ふしぎな業《わざ》であったといえよう。
 また。
 自分の背中の、きたない古い茶壺のなかに、そんな何百人、何千人の大人たち――伊賀の侍たちをはじめ、こわいお侍《さむらい》さんの大勢に、こんな生き死にの騒ぎをさせるような、巨万の財宝がかくされてあろうなどとは、もとより知るよしもないお美夜ちゃん……まるで、塗りのはげた木履《ぽっくり》に小判がのっかって、港の石垣に流れよって来たようなもの。
 そして、一方では。
 三方子川の漁師|六兵衛《ろくべえ》の網に、隻眼隻腕の痩せ浪人と、青白い美男とが引っかかった――。
 たいへんな獲物。
 これも、人間の港のはかり知ることのできない、浪の動きというべきであろう。
 人間の港は、雨につけ風につけ、三角浪をたて、暗く、明るくさかまいて、思いもよらない運命のはしはしを、その石垣の岸へうち寄せる……お江戸八百八町の潮のふしぎ。
 千代田の濠《ほり》はいかに深く、その城壁はどんなに高くとも、この、人間の港の潮を防ぐことはできない。
 お庭をわたる松風の音《ね》と、江戸の町々のどよめきとが、潮騒《しおさい》のように遠くかすかに聞こえてくる、ここは、お城の表と大奥との境目――お錠口《じょうぐち》。
 おもては、政務をみるお役所。大奥は将軍の住い。
 その中間の関所ともいうべき、このお錠口は、用向きはいちいちここで取り次いで、なんびとといえどもかってに出はいりを許されない。
 なんびとといえども――と言ったがただ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
 お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
 今も。
 老人|腹這《はらんば》いになって、何か書見をしている。
 まだ宵の口。
 実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
 お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
 これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向《ひなた》ぼっこをしている形。
 とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音《あしおと》がすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」

   玉手箱《たまてばこ》


 
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