ばかりの女の子が、重内、作三郎らに引ったてられてまいりましたが――」
忠相の眼は、いつも義眼のように無表情なのだ。何事があっても、けっして感情をあらわさない眼……そうであろう、この人間の港、大江戸の水先案内ともいうべき奉行職を勤めることは、かれ忠相、人間として修行することであった。行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、すべてこれ道場である。そう自らを練ってきているうちに、かれの眼は、びいどろ細工のように、外の物は映しても、内のものは現わさなくなった。おそろしい眼だ。あの天一坊《てんいちぼう》も、この、またたきもしない眼に看破《みやぶ》られたのである。
いま、その眼をじっと大作にすえて、
「ナニ、女の子だと?」
「ハイ、それが、この夜ふけに一人歩いておりますので、不審を打ち、木戸へさしかかりましたところを、取り押えましたところが、奇怪にも、殿にお眼通りを願ってやまぬと申すことで、重内も作三郎も、ホトホトもてあまし、とにかく用人部屋まで連れてまいっておりますが」
「余に会いたい?」
「はあ、ただ、お奉行様にお目にかかるんだと申すだけで、あとは何をきいても、シクシク泣いております」
ちょっと考えていた忠相は、
「どんな娘じゃ」
「貧乏な町家の娘《こ》で――何やら大きな箱を背負っております。壺だとか申すことで」
「壺じゃと?」
あわてたことのない忠相の声に、ちょっとあわただしいものが走ったが、それは瞬間、すぐもとの、深夜の静海のような顔にかえって、
「なぜ早くそれを言わぬ」
「はア?」
「イヤ、なぜ早く壺のことを言わぬと申すのじゃ。庭へまわせ」
大作は意外な面持《おもも》ち、
「では、あの、御自身お会いになりますので?」
「庭へまわせというに」
くりかえした忠相《ただすけ》は、さがっていく大作の跫音を、背中に聞きながら、
「泰軒の使いじゃな」
と、つぶやいたまま、もうそのことは忘れたように、ふたたび、卓上の書物へ眼をおとしていると、
広縁のそとの庭先に、二、三人の跫音がからんで、
「殿、連れてまいりましたが――」
大作の声とともに、すすりあげる女の子の泣き声。
二
もう、死んだ気のお美夜ちゃんだった。
泰軒先生の言いつけだし、大好きなチョビ安兄ちゃんのためだとある――
この重い壺の箱をしょって、遠い桜田門とやらの、こわいお奉行様のお宅まで行くように……と言われたとき、お美夜ちゃんは恐ろしさにふるえあがってしまった。
ほんとに、どうしたらいいだろうと、作爺さんに相談してみたところが、そりゃあお前、どんなことをしても行かなくっちゃアならない。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのために――。
「泰軒小父ちゃんと、あのチョビ安兄ちゃんのためだもの」
後ろには、自分の背《せい》ほどもある、重い重い壺の箱をしょい、前には、これもやはり自分の背ほどもある小田原提灯をぶらさげたお美夜ちゃんが、深夜の町を、一人トボトボ歩きながら、たえず、呪文のように口の中にくりかえしたのは、この言葉だった。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのため……。
そうすると、小さなお美夜ちゃんに、ふしぎに、大きな力がわくのだった。
物心ついてから、竜泉寺《りゅうせんじ》のとんがり長屋しか知らないお美夜ちゃん。
桜田門なんて、まるで唐天竺《からてんじく》のような気がする。
何百里あるのかしら。
何千里あるのかしら。
江戸に、こんな静かなところがあろうとは、お美夜ちゃんは、今まで知らなかった。まるで死のような町。
白壁の塀が、とても長くつづいていたり、その中からのぞいている銀杏《いちょう》の樹を、お化けではないかと思ったり、按摩《あんま》師の笛が通ったり、夜泣きうどんと道連れになったり――。
人にきききき、やっとのことで桜田門という辺まで来てみると、まっ暗な中に大きなお屋敷がズラリと並んでいて、とほうにくれたお美夜ちゃんの前に、このとき、左右から六尺棒をつき出して、
「コラッ、小娘、どこへゆく」
と、誰何《すいか》したのが、越前守手付きの作三郎、重内の二人、不審訊問というやつだ。
お美夜ちゃんはわるびれない。
「あたいね、南のお奉行様のところへ行くんだけど、小父《おじ》ちゃん、お奉行様のお家《うち》知らない?」
「なんと御同役、お聞きなされたか。あきれたものではござらぬか。ヤイヤイ、小娘、ここが、そのお奉行様のお屋敷だが……」
「ナラ、どっちの小父ちゃんがお奉行様? この人? この人?」
「イヤ、これはどうも恐れいった。お奉行様が小倉の袴の股立ちをとって、六尺棒を斜《しゃ》にかまえて、夜風に吹かれて立ってるかッてンだ。相当|奇抜《きばつ》な娘だナ、こいつは」
取りつく島がなくなって、両手を眼に、メソメソ泣き出したお美夜ちゃ
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