え。この穴は、きっと三方子川《さんぼうしがわ》の川底につながっているに相違ねえ」
もう、鍬《くわ》や鋤《すき》ではどうすることもできない。
一同は思案にくれてしまった。
水は、さながら噴水のようにわきあがってくる。
「お父上! お父上! 水の力で浮きあがってこられないの? お父上!」
チョビ安はもう半狂乱。
「オウ、野郎ども! 三尺をとけ。下帯も――」
なかば水音に消されながら、石金さんの胴間声《どうまごえ》がひびいた。
十六
穴の中から水がわき出たと聞いて、きもをつぶしたのは、結城左京の一派です。もういけない……! これ以上ここにまごまごしていたら、自分たちの身があやうい。
「だめだッ! 引きあげよう」
ナニ、引きあげるんじゃアない。逃げるんだ。
「もうこうなったら、先へ行った峰丹波殿《みねたんばどの》の一行に追いついて、助勢を借りるよりほかみちはない」
ささやきかわして不知火のやつらは、サッと刀を引くが早いか、一目散に闇の奥へ消え去った。源三郎と左膳が、生きているか死んでいるか、それを見きわめるひまもなく。
泰軒先生は、丸太を投げすてて穴のふちへとんできながら、
「ナニ、水がわいたと」
「ハイ、このとおりです」
なるほど、夜目にはハッキリと見えないが、泥をとかした真ッ赤な濁水が、まるで坊主頭《ぼうずあたま》がかさなるように、ムクムクわきあがってきて、穴は、もういっぱいの水。
アレヨアレヨと言うまにあふれあふれて、まわりに立つ人々の足を没せんばかりの勢い……。
「ふしぎなこともあるものだ。これでチョビ安の父親《てておや》も、もはや命はあるめえ」
「居候の小父ちゃん、なんとかしてお父上を助けてよ。あたい、この水の中にもぐろうか」
「馬鹿言え。下から噴き上げる水へもぐっていくのは、よほど泳ぎの達者な者でも、むずかしいとされている」
言いながら、泰軒先生が見まわすと。
例の指揮者の石金です。帯をといているんだ。
帯といっても三尺……そのよれよれの三尺をといた石金、大声をはりあげて、
「ヤイ、みんな、帯をとけ」
長屋の連中のことだから、算盤《そろばん》絞りかなにかの白木綿の三尺――一同それをといて、つなぎ合わせてみたところで、長さはしれている。
「これじゃアしょうがねえ。下帯をときな」
江戸っ子がそろっているから、いくら貧乏人でも、腹巻きや下帯は、切りたての晒《さら》し木綿のりゅう[#「りゅう」に傍点]としたのを身につけている。
それをつなぎ合わせましたから、ここに長い一本の綱ができた。
即製の、いのち綱。
「さぐりを入れるんだ。先に、何か引っかけるものをつけなくっちゃアならねえ」
もう、足を洗うぬかるみの中に立って、一同は死にもの狂いの働きだ。
誰かが、焼け跡から桶《おけ》のたがを見つけてきた。それを、そのつないだ帯のさきに結びつけたが、これだけでは、水のなかへ沈んでいかない。
「重りをつけろ」
というので、そのまたたがへ、てごろの石をゆわいつけた。
このふしぎな命綱を、静かに穴の水中へおろしてやるのだ。あせる心をおさえつつ。
へんな夜釣りがはじまった。
「手ごたえはねえか」
地引き網のように、五、六人で綱のはしを持ってたぐりおろしてゆくと、しばらくして、
「ウム、重くなったぞ! 何か引っかかった」
ソレ、あげろ、引きあげろ……と言うんで、勢いこんで、ひっぱりあげてみると、何と! 大きな岩が桶のたが[#「たが」に傍点]にひっかかっている。
水は、いたずらにムクムクとわき出るだけ、……丹下左膳も、柳生源三郎も、影も形もあらばこそ――。
人間《にんげん》の港《みなと》
一
「殿――」
伊吹大作の声だ。
桜田門外の、南町奉行大岡越前守の役宅は、奥の書院に、まだポーッと灯がにじんで……。
越前守様は、まだ起きていらっしゃるらしい。
黒塗り絵散らしの文机に向かわれて、燭台を引きよせ、何やら読書をしていらっしゃる。
書物をめくる、ひそやかな音。
毎夜のようなお調べものなんです。
「大作か。なんです」
下《しも》ぶくれの、柔和な越前守の笑顔が、次の間のふすまのほうへ、
「其方《そち》、まだ起きておったのか。かまわず先にやすめと申したに。ははははは、わしのつきあいはできぬであろう」
忠相《ただすけ》は笑うと、キチンとそろえた小肥《こぶと》りの膝が、こまかくゆれる。それにつれて、かたわらの燭台も微動する。灯がチラついて、小さな影が散る――。
ふすまの引き手の房《ふさ》が、ゆらりとゆれた。細目にあいた隙《すき》から、次の間の伊吹大作の顔が現われて、
「お精が出ますことで……申しあげます。ただいま、木戸にひっかかりましたとやらで、七、八つ
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