い人たちほど、涙ぐましいくらい、同情心が深いものです。
 人の身の上が、ただちに自分の身の上なのだ。トンガリ長屋の連中は、もう一生懸命。男も女も、全身の力を腕へこめて穴を掘ってゆく。
 ふだんはめっぽう喧嘩っぱやい、とんがり長屋の住人だが、この美しい人情の発露には、チョビ安も泣かされてしまいました。
「ありがてえなア。おいらの恩人は、この長屋の人たちだ。いつか恩げえしをしてえものだなあ……――」
 うれし涙をはらって、チョビ安、ひとり言。
 穴の周囲は、戦場のようなさわぎです。糊屋《のりや》のお婆さんまで、棒きれをひろってきて、土をほじくっている。これは助けになるよりも、じゃまになるようだが……――うしろのほうで突然、トンツク、トンツクと団扇太鼓《うちわだいこ》が鳴りだしたのは、法華宗《ほっけっしゅう》にこって、かたときもそれを手ばなさないお煎餅屋《せんべいや》のおかみさんが、ここへもそれを持ってきて、やにわにたたきはじめたのだ。士気を鼓舞すべく……また、南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》の法力を借りて、この穴埋めの御難を乗りきるべく――。
[#ここから2字下げ]
とんつく、とんつく!
とんとん、つくつく……!
[#ここで字下げ終わり]
 イヤ、お会式《えしき》のようなにぎやかさ。
 指揮をしているのは、例の石金のおやじと、南部御浪人《なんぶごろうにん》細野先生だ。
 ガラッ熊、鳶由《とびよし》、左官《さかん》の伝次――この三人の働きが、いちばんめざましい。鍬をふるい、つるはしを振りかぶり、鋤を打ちこんで、穴は、見るまに大きく掘りさげられてゆく。
 一同泥だらけになって、必死のたたかいだ。おんな子供は、その掘りだした石や土を、そばから横へはこんでゆく――深夜の土木工事。
 泰軒先生は?
 と見ると、やってる、やってる!
 むこうで、結城左京《ゆうきさきょう》をはじめ、刀を取って引っかえしてきた不知火流の七、八人を相手に、
「李白《りはく》一斗《いっと》詩《し》百篇《ひゃっぺん》――か。ううい!」
 酒臭い息をはきながら、たちまわりのまっ最中。

       十五

「李白一斗詩百篇、自《みずか》ら称《しょう》す臣《しん》はこれ酒中《しゅちゅう》の仙《せん》」
 泰軒先生、おちつきはらったものです。
 思い出したように、この、杜甫《とほ》の酒中八仙歌の一節を、朗々吟じながら――。
 棟の焼けおちた大きな丸太を、ブンブン振りまわして、だれもそばへよれない。
 のんだくれで、のんき者で、しようのない泰軒先生、実は、自源流《じげんりゅう》の奥義《おうぎ》をきわめた、こうした武芸者の一面もあるんです。
 トンガリ長屋の人たちは、この泰軒先生のかくし芸を眼《ま》のあたりに見て、ちょっと穴を掘る手を休め、
「丸太のような腕に、丸太ン棒を振りまわされちゃア、近よれねえのもむりはねえ」
「ざまアみやがれ、侍ども!」
「オウ、感心してねえで、穴掘りをいそいだ、いそいだ」
 不知火《しらぬい》の連中は、気が気ではない。泰軒一人でも持てあましぎみだったところへ、文字どおり百鬼夜行の姿をした長屋の一団が、まるで闇からわいたようにとびだしてきて、見る間に穴を掘りだしたのだから、結城左京らのあわてようッたらありません。
 それはそうでしょう。
 この穴を掘りさげていけば、柳生源三郎と、丹下左膳がとび出す。
 猫を紙袋《かんぶくろ》におしこんで、押入れにほうりこんであるからこそ、鼠どもも、外でちっとは大きな顔ができるようなものの……。
 その鋭い爪をもった猫が、しかも二匹、いまにも袋をやぶり、押入れからとび出すかもしれないのだ。
 それも、死骸であってくれれば、なんのことはないが――。
 水におぼれて、もう死んでいるには相違ないけれど……伊賀の暴れん坊と不死身の左膳のことだ、ことによると……。
 ことによると。
 まだ生きているかもしれない――。
「こいつひとりにかまってはおられぬ」
 と左京は大声に、
「早く! 早く穴のほうへまわって、あの下民《げみん》どもを追っぱらってしまえ」
 声に応じて、刀をふりかざした二、三人が、穴のまわりに働く長屋の連中のなかへ斬りこもうとするのだが――。
 ドッコイ!
 泰軒先生の丸太ン棒が、行く手ゆく手にじゃまをして、どうしても穴のそばへ行くことができない。
「筑紫の不知火も、さまで光らぬものじゃのう」
 泰軒先生の哄笑が、長く尾をひいて闇に消えたとき! 
 必死に穴を掘っていた群れに、突如、大声が起こって、
「ヤア! 水だ、水だ!」
「水脈《すいみゃく》を掘りあてたぞ!」
 それじゃアまるで井戸掘りだ……しかし、冗談ではない。しばらく掘りひろげた穴から、コンコンと水が盛れあがってくるではないか。
「こりゃいけね
前へ 次へ
全108ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング