「来るかッ。オイ、来る気か」
いっぱいにゆがんだ微笑を浮かべた左膳の顔を、月がぼんやり照らしだす。
眼にもとまらぬうちに、同僚の二人まで失った柳生の連中は、浮き足《あし》だったのだろう。
「おおそうだ、これから切通しへ出れば、妻恋坂はさほど遠くはない」
「うむ、われわれの手にはちょっと負えそうもない。若殿源三郎さまを御加勢にお願い申して――」
うまい逃げ口上もあったもので、一人がぱッとかけ出すと、残っていた三人ほども、一時にそのあとを追って、右側の軒下づたいに、本郷のほうへスッとんでゆく。
こうなると、名代の柳生一刀流も、こうした下っぱになると、からきしだらし[#「だらし」に傍点]のないものとみえます。
あと見送って含み笑いをした左膳が、血のしたたる濡れ燕をソッと地面に突き立てて、駕龍のそばにしがみ寄り、引き戸に手をかけたとたん、駕籠の中から、
「相変わらずだね、丹下の殿様、おひさしぶり、ホホホホホ――声でわかりましたよ」
三
声でわかりましたよ……という女の言葉が、駕籠の中から。
左膳が、ギョッとして身を引いた瞬間。
引き戸がなかからあけられて、闇に咲く大輪の花のようにたち現われたのは、御殿女中姿の櫛巻の姐御……あっけにとられた左膳の肩を、ポンとたたいて、
「まあ! 今までどこにどうして――会いたかったわ」
と寄りそった。夜中にこっそり駕籠を急がせて来るのだから、テッキリこけ猿の壺……に相違ないと思ったのに、あらわれたのは意外にも女! しかも、駒形の尺取横町に残してきたはずのお藤が、こうした変わった風体《なり》で、柳生家の駕籠に乗っていようとは!
おもしろくもないといった顔、不愉快そうに濡れ燕を鞘へ納めた左膳は、
「おめえか……えらく出世をしたものだなア、どういういきさつで、そんな身分になったのか知らねえが、おらあおめえには用はねえのだ。また会おうぜ」
皮肉に口尻《くちじり》を曲げて言いはなった左膳、足早に歩きだした。
櫛巻お藤には、相変わらずそっけない左膳でした。
「マア、お前さんのように、情の剛《こわ》い人があるかしら――わたしゃこうしていやな芝居をつとめる気で、こんな窮屈な思いをしながら、一日半時だってお前さんのことを忘れたことはないのに、ヒョッコリ会ったと思ったら、もうすぐ、ろくすっぽ話も聞かずに、そうやって行ってしまおうとするなんて!」
と櫛巻の姐御、姐御の本領を発揮して、いきなり、縫い取りの美しいうちかけをぬぎすてるが早いか、パッと地面へ投げすてた。
「よし! あたしも櫛巻と言われた女だ。こうなりゃあ意地ずく! どこまでだってついていってやるから!」
と、長い裾をグイとはしょると、夜目にも白い脛《はぎ》がくっきりと。
見ると、左膳はもう四、五間さきを、何事もなかったように歩いてゆく。
「オット! いけない、子供たちを忘れちゃあ……」
つぶやいたお藤姐御は、駕籠へ引っかえし、中へ手を入れてごそごそやっていたが、取りだしたのは角ばった風呂敷包み。折り畳の三味線と、塗り箱に入った尺取虫と――商売もの。
これだけは一刻《いっとき》も、そばを離さず、こうして外出《そとで》にも、駕籠へ入れて持ち歩いているものとみえる。
かたむきかけた月を踏んで、ブラリと歩いてゆく左膳のうしろから、裾をからげたお藤姐御が、二、三間おくれてシトシトとついてゆく。
妙な道行き――。
「腰元づとめなど、あたしゃもう、ふつふついやになって、今日は逃げ出そうか、明日は……と思っていたやさき、いいところでお前さんに会ったわ」
先をゆく左膳、振りかえりもせずに、
「その姿はどうしたというのだ」
「なんて、きくところをみると、それでもすこしは気になるとみえるね。ウフッ、東海道を与吉といっしょに、流しているうちに、柳生の殿様につかまって、おもしろい女というんで、おそばに仕えることになったんだが、今その殿様は、日光御造営のお奉行になって、日光《あっち》へ行ってしまうし、あたしゃ百いくつとかのお化けのようなお爺さんの世話をしながら、しんき臭い日を送っていたのさ。ほんとうに、またお前さんに会えようなどとは、夢にも思わなかったよ」
四
この櫛巻姐御をひと眼見て、これは何か使える、見どころがある……と、腰元として江戸まで連れて来、上屋敷に置くことになった柳生対馬守は。
どういう考えだったのでしょう。
その後、なんのこともなく、ただそば近く使っておいただけ。こんど日光へゆくに当たって、お藤をあの一風宗匠づきとして、林念寺前の屋敷内の茶席に残してゆくことになったのですが……。
さて今、お藤は、左膳のうしろから、ノコノコついてゆきながら、
「それで、あたしの仕事というのは、その一風というお爺さ
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