街道の砂ほこりにまみれ、人血の飛沫《ひまつ》に染んだ例の白衣《びゃくえ》に、すり切れた博多の帯を、それでもきちょうめんに貝の口にむすび上げ、ずしりと落とし差した妖刀|濡《ぬ》れ燕《つばめ》の重み――。
 抜けあがった大たぶさを、ぎゅっと藁でしばった変相妖異のつらがまえ。
 竹の棒のように痩せさらばえた長身の、片ふところ手……とことわるまでもなく。
 かた手ははじめッからないんだったッけ。
 しかめッつらに見えるのは、右眼をつぶしてななめに走る刀痕のゆえ。
 ニュッとあごをつき出し、幽霊のように蹌々踉々《そうそうろうろう》と歩きながら、口の中につぶやいてゆくのを聞けば、
「燕雀何徘徊《えんじゃくなんぞはいかいせる》、意欲還故巣《いはこそうにかえらんとほっす》――か」
 がらにないことをブツクサ口ずさんで、
「おい左膳、こうして手ぶらで江戸へけえってきたところをみると、おめえも、よっぽど里ごころがついたのだろう」
 自分を相手のひとり言。一歩ごとに濡れつばめの鍔のゆるみが、カタコト鳴るのが、「人が斬りてえ、アア人が斬りてえ」――というように聞こえるので。
 チョビ安の野郎は、どうしたろう?
 柳生源三郎は? 萩乃は?
 と、想うことは山のよう……とにかく、自分に会う前にチョビ安がいたという、あさくさ竜泉寺のあのトンガリ長屋とやらへ行ってみたら、ことによったらその後のようすがしれようもしれぬ。
 という肚《はら》。
 品川宿から江戸入りした左膳は一直線に八百八町を横ぎろうと、今しさしかかったのが、この上野山下の三枚橋です。
 ちょうど真夜中のこと。
 お山の森のうえに、うすぼんやりとした月がかかって、あたりにただよう墨絵のような夜の明かり。
 両側の商家は、ドッシリと大戸をおろし、天水桶に大書した水という字が、しろじろと見えるそばに、犬が丸くなって寝ている。
 何か事ありげな晩だった。
「ヤヤッ! この深夜に駕籠が……」
 いま、三枚橋に片足かけた左膳の一眼に、ぽつりと映ったのは、正面、上野の山をおりてこっちへやってくる一丁のお駕籠です。
 四、五人の高股《たかもも》だちの侍が、前後を警備し、なんとなく世をはばかる風情が見える。
 真っ先に立ってくる提灯の紋――!
 見おぼえがある。あれは確かに、柳生家の……。
 駕籠というと、ただちに壺を連想するのが、このごろの左膳だ。
「茶壺の駕籠ではあるめえか」
 そう思った。
 小みぞのそばに、柳の垂れ枝。そのかげに身をひそめた左膳が、近づく駕籠を半暗《はんあん》にすかして見ると――蝋色《ろういろ》鋲打《びょうう》ちの身分ある女乗物。
 と! 闇に氷の光一閃。同時に、駕籠わきの一人が、ウウム! と肩口をおさえてよろめいたとき、
「待った! 気の毒だが、その駕籠に用がある――」

       二

「ヤッ! 狼藉《ろうぜき》者ッ!」
「人違いではないか。うろたえるな!」
「それッ、おのおの……」
 いろいろな声が一時にわいて、侍たちは、ぴたりと駕籠を背に、立ちならんだ。
 肩をやられた一人は、何か火急の用事のある人のように、タタタッと前のめりに、三枚橋を渡りきって、四、五間走ったところで、ぱったり倒れた。
 一同は、そっちを振り向く余裕もなく、
「名乗れッ! われらは柳生対馬守藩中……」
「おウ、その柳生の駕籠と知って用があるのだ!」
 すでに一人の血を味わった濡れ燕を、左膳は、ひだり手にだらりと下げて、よろめくように二、三歩、前へ出ながら、
「よウ、そ、その駕籠の中を一眼見せてくれ、壺でなかったら、おとなしく引き下がるから、よウ」
 と、しなだれかかるように、侍たちへ肩を寄せてゆく。うすく笑いながら――。
 内心に渦まく殺気を持てあまして、その一本腕がうずうずするとき、左膳はよく、こうした酔漢《よいどれ》のような態度をとるのだ。
 いわば。
 丹下左膳がもっとも左膳らしい危険な状態に達した高潮《こうちょう》。
 とも知らない一人が、
「たわけッ!」
 どなると同時《どうじ》に、フイと、おどるようなからだつき――足を開き、腰を沈ませたかと思うと、抜きうちに左膳の胴《どう》へ!
 刀身に、白く月が冴えた。
 どすッと、何か、水を含ませた重い蒲団を、地面へたたきつけたような音がしたのは、今の一刀が、みごと左膳の深胴《ふかどう》にはまったのか……。
 と見えた刹那。
 ひょろっと手もとへ流れこんだ左膳の体あたり、無造作に持った濡れ燕の柄《つか》が、その切っさきを受けとめて、かわりに、足をすくわれたように空《くう》に泳いでいるのは、かえってその斬りつけたひとり。
 ふしぎ!
 いつ濡れ燕が羽ばたきしたのであろう。
 今の重い音は、かれの上半身をななめに斬り裂いた濡れ燕の、血をなめた歓声だったのだ。

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