ていた関所番人は、今このお美夜ちゃんの言葉を聞くと、グッと大きく一人でうなずき、
「ヨシヨシ、いま手形を書いてやるから、そこに待っておれ」
 言いすてて、足を宙にとびこんで来たのが、役人のつめている番所だ。
「おのおの方、とうとう親娘《おやこ》の旅の者が引っかかりましたぞ。しかも、美しい母と、あどけない女の子で。これでわれわれの大任もおりたというもの」
 茶を飲んでいた津田玄蕃が、急ぎ床几《しょうぎ》を離れて、
「それはお手柄。拙者もこれで安心いたした。では、かねての手はずのとおりに……」
 なにやら低声《こごえ》に命令をくだした玄蕃は、お蓮様とお美夜ちゃんの待ってるところへ、たちいでて、
「コレハコレハ、よく来られた。むろんお手前はまだ、御存じではあるまいが、このたびの日光造営奉行たるわが藩においては、このお山どめの関所開きに、はじめて関所にさしかかった母と娘の二人連れを、縁起祝いとしておおいにもてなすことになっておるのじゃ」
 生きながら壁へ塗りこめてしまうのが、なんで待遇《もてなし》なものか。
 何も知らないお蓮さまが、あっけにとられていると、玄蕃はかまわずつづけて、
「二人とも今より、奉行所の大切な賓客《ひんきゃく》じゃ。われらがお供申しあげるにより、これより用意の駕籠《かご》に召されて――」
 と玄蕃、ポンポンと手をたたくと、かねて手はずの山駕籠が一丁、焚き火の光のなかへかつぎこまれて来る。
「御遠慮無用。サ、これへ……」
 逃がすまいと、手取り足とらんばかりに、はや、駕籠へ――なるほど、たいせつな人柱、これは逃がされない。

   芸心《げいしん》阿修羅《あしゅら》


       一

 カット照りつける陽の光の底に。
 どこやらうっすらと、秋の気配の忍びよる午後である。
 今は日光小学校があります。あれに沿って左に曲がり、四本竜寺の前を過ぎて、その道を真っすぐにとってゆけば、さらに右手に、稲荷川のつり橋。
 あれから左に折れると、外山《そとやま》。
 一直線に行けば、霧降道《きりふりみち》だ。
 外山はつり橋から五、六町も行けばすぐふもとについて、山麓《さんろく》には凍岩《こおりいわ》、摺子岩《すりこいわ》があり、山上のながめは日光第一といわれているが――
 つり橋のたもとから、途中に律院《りついん》と梅屋敷のそばを過ぎて、渓流にかかった橋を渡ると、小倉山の高原。
 で、この高原を一里あまりもたどって、赤薙《あかなぎ》の東ふもとに出れば、もうはやそこに、とうとうと地ひびきをうって聞こえてくるのは……。
 日光三大|瀑布《ばくふ》の一なる、霧降《きりふり》の滝です。
 高さ十三丈、幅五間、上下二段になっている。
 山上から飛ぶしぶきは、折り重なる岩石に砕けて煙のように散り、滝壺から、横の山道にのぞく立ち木のこずえにかけて。
 どうです!
 いま、すばらしい七色の虹《にじ》が、かかっている。
 その虹のはしに、小広い滝見台があって、そこから、草を分ける小みちが、だらだらくだりに滝とは反対の谷底へ、のびています。
 昼なお暗いという形容は、ここにきてまことに真。
 小みちを下りつくした谷あいの木かげに、先ごろから、木口のいろも白い一軒の造作小屋が建てられて。
 どんなものずきな人か、髪の白い、腰の曲がりかけた老人が、この山奥も淋しくないとみえ、たったひとりで住んでいる……作阿弥。
 人の背ほどもあろうかと思われる雑草や、灌木におおわれて、この作阿弥の仕事部屋は、滝見台からも人の眼に映らない。
 世を離れ、三昧《さんまい》の境地にはいって、一心不乱に制作したいという彼の望みにしたがって、この、もっとも人跡絶えた渓谷を卜《ぼく》し、対馬守の手で急ぎ建てられた、いわば、これが、作阿弥のアトリエなのだ。
 たった一人――。
 とは言ったが。
 それにしては、ふしぎなことがある。その工作部屋から、ときどきさかんに人の話し声がもれてくるので。
 だが、朝夕作阿弥が、小屋のそばを流れる谷川の縁にしゃがんで、土釜《どがま》の米をすすいだり、皿小鉢を洗っているのを、むこう山の木の間から、樵夫《きこり》が見かけることがあるくらいで、住んでいるのは、確かに作阿弥老人ひとりのはずだが……。
「なア、りっぱなものを彫りあげて、ぶじに納めることができれば、大仏師|法眼康音《ほうげんやすね》、狩野探幽《かのうたんゆう》、左甚五郎など、日光結構書に伝わる名人巨匠と肩をならべて、お前も長く権現様のおそばに残ることになるのじゃ。ナア、そう思ったら、しばらくジッとして立っておるぐらい、なんのこともあるまいが……」
 今も、この作事小屋から、しきりに作阿弥の話し声が流れ出て、
「ホラ! ここへひとつ、こう、グッと鑿《のみ》を入れると、ソラどうじゃ、全体が
前へ 次へ
全108ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング