《たるみ》の実家へ送り帰される途中――。
交野《かたの》の辻《つじ》という野原があります。そこへさしかかると、鳴いて飛びたった一羽の雉子《きじ》が、あわれにもかりうどの矢に射おとされるのを見て、娘は父の悲しい思い出を連想し、駕籠《かご》の中から、
「物言はじ父は長柄の人柱、なかずば雉子も射たれざらまし」
有名なおはなしでございます。
さて、今この日光造営奉行所の奥の一間には――。
五
「物言《ものい》はじ父は長柄の人柱――」
この歌をよんで泣いた女の心をはじめて知った良人《おっと》は、そうであったか、あの父の死を悲しんで唖を通していたので、自分に情のないわけではなかったのかと、もとの鞘《さや》におさめて、あと仲よく暮らし、その交野の辻には雉子|塚《づか》を作り、三本の杉を植えて長く記念にしたという。
そのほか、人柱の伝説は、諸国にたくさんつたわっております。
そこで、今。
山王《さんのう》わきの日光修営奉行所の奥の奥、壁の厚い一間に、三人の人影が黙然《もくねん》と腕をこまぬいている。
壁の厚いのは、密談のもれ聞こえるのを防ぐためで、工事の進行程度、経費の件その他に、この日光造営にはいろいろと秘密が多かったところから、奉行所には、かならずこうした密室が一つ二つ造られたもので。
「それでは――」
と言いかけて、ものおじしたように他の二人の顔を交《かた》みに見くらべたのは、お畳奉行別所信濃守。
蒼白《そうはく》の額に、深い縦じわをきざんで、暗く沈んだ声なのは、よほどの重大事を議しているらしい。
かすかに眼を上げて、別所信濃の言葉の先を待っている二人とはいうまでもなく、柳生対馬守と、家老田丸主水正。
何やらものものしい空気が、その、しめきってムッとする室内に、こもっています。
「護摩堂《ごまどう》の壁へ――という話であったが――?」
「は」
主水正と対馬守は、チラと眼をかわしたが、すぐ対馬守が、ひとり言《ごと》のようにつぶやきつづけて、
「かの有名なる寛永の御造営は、永久の策としてもろもろの計画があったのじゃったが、完成のあかつき、その結果はすべて裏ぎられて、そののちたびたび修繕を加えねばならぬこととなったのじゃ」
と対馬は、こんどこの、日光をお引き受けするについて、家臣を督《とく》して調べさせた日光修覆に関する文献をボツボツと思い出しながら、
「御公儀が、この二十年目ごとの日光お直しを思いつかれたのは、それからじゃそうな」
「ハッ、まさにそのとおりで」
あとを受けついだ主水正は、指を折って数えて、
「正保《しょうほう》二年、承応三年、寛文四年九月、延宝七年……と、ちょっと数えましても、実におびただしい御修覆の数々。ところで、そのいずれの場合にも、まずいちばん先に損じてお手入れの必要を生ずるのが、いつもきまってあの護摩堂の北側の壁――」
「こんどもそうだということです。で、日光役人はたえずその護摩堂の北側の壁に気をつけておって、そこが破損しかけてくると、いよいよ他の部分も大々的につくろいをほどこさねばならぬ時期が来たことを知り、ただちに江戸表へ具申して、そこで、あの、城中大広間の金魚|籤《くじ》となり、そのときの造営奉行をとりきめるという、こういう手順だそうで」
「実に面妖な話じゃ」
対馬守の眼が、キラリと光った。
三人をつなぐ、三角形の中点に置かれた燭台ひとつ、そのうつろいをうけて、三つの顔は、赤鬼青鬼の寄りあいのよう……。
「なにかあの護摩堂の北側の壁に、たたりでもあるのでは……」
「サ、そこで、こんどあの壁へ人柱を塗りこんでは――という、この相談も持ちあがりましたようなわけ――」
六
何を思ったか対馬守は、大声に笑い出して、
「こんどのこの造営に際して、その問題の護摩堂の北側の壁へ、生きた人間を人柱に塗りこめねばならぬ……と言い出したのは、いったい誰じゃ?」
別所信濃も主水正も、答えません。
シンと無気味な静寂が、この狭い密室に落ちる。
「昔から人柱は、言い出した者へ当たると申すことだぞ。主水、お前ではないか、さようなことを言いはじめたのは」
ギョッとした主水正、このあいだ妻恋坂の司馬道場で、峰丹波に斬りつけられたときよりも、もっとあわてて、
「ト、とんでもない! 私がなんでそのようなことを!」
と、両手を眼の前に立てて、しきりに手を振る。
じっとみつめていた対馬守、意地の悪そうな微苦笑とともに、
「ソラソラ! その手が、壁を塗る手つきにそっくりじゃ。どうも主水、この人柱は其方《そち》へ落ちそうじゃぞ」
主水は真《ま》っ蒼《さお》になって、
「ジョ、冗談じゃありません」
と、ピタリと両手を膝へおろしてしまった。
これには、別所信濃守も微笑しな
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