猫と鼠……では、鼠は猫の敵でないにきまっている。
 だが、しかし。
 別の場合もあるので――世の中には、窮鼠《きゅうそ》かえって猫を噛むという言葉もある。
 いまがその例のひとつ。
 ちょっくらちょっとあるまいと、源三郎以上に剣腕《うで》の立つ人を立ちあいに……と、こっちが申し出たのに対して、望みどおりに、剣の上でも兄者人《あにじゃひと》たる柳生対馬守が、判定者!
 もう、のっぴきならない。
 と思うと同時に、峰丹波、今までふるえおののいていた鼠が、窮鼠《きゅうそ》になった。
 どうせ助からない命!
 ときまっている以上、すこしはパッと十方不知火流の精華《せいか》を発揮して……やっと武士らしい気持に立ちもどった。
 のみならず。
 うしろには、おのが弟子ともいうべき不知火流の門弟どもが、固唾《かたず》をのんでひかえているのですから、ここは丹波、いやでも死に花を咲かすよりほかない。
 人間、死ぬ覚悟ができると、別人になる。
 もろもろの物欲|我執《がしゅう》にとらわれていたのが、このごろの夕立のようにスッパリと洗い落とされて、一時に開くのです、心の眼が。
 峰丹波、落ちついてきた。
 で、今。
 丹波はその新しい眼で、この柳生対馬守――家老の田丸主水正が殿様の役を買って出ている偽物《にせもの》とは丹波をはじめ不知火組は、それこそ誰不知矣《たれしらぬい》――のようすを、じっと見なおしました。
 ところで、にせ物というものは、黙っていれば、それで通る場合が多いのですが、ほん物でないだけに気がとがめるせいか、とかくこの贋物《がんぶつ》にかぎって、いろいろと口が多い。よけいな言葉を吐く。
 それに、田丸主水正は。
 一時でも、この源三郎の兄となったことが、うれしくってうれしくってたまらないんです。
 いつもは。
 田丸の爺イ、田丸の爺イと、呼び捨てにされて、頭ごなしにどやしつけられてきた。箸にも棒にもかからぬ若殿様の伊賀の暴れん坊。
 この一刻《いっとき》だけは、かりにもその源三郎を見おろして、きめつけることができるのですから、イヤ主水正、大人気もなく、ついいい心持ちになっちゃって、
「オイ、源三郎、早くしたくをせぬか」
「はい、兄上、ただいま」
 と源三郎、ちくしょう! 田丸の爺め、あとで思いしらしてやる! と、心中に歯を食いしばりながら、近侍のすすめる白羽二重の襷《たすき》を取って、十字に綾《あや》なしていますと、
「コレコレ、源三郎――!」
 主水正、また始めた!
「丹波殿がお待ちではないか。この期《ご》におよんで気おくれがしたか源三郎! ヤイ、源公!」
 そんなことは言わない。
「気おくれだと? 爺め、今だと思って、ひでえことを言やあがる」
 源三郎が低声につぶやいて、そっとにらみつけると、主水正はケロリとした顔で、
「無礼であろうぞ源三郎! なんという眼つきをして兄上を見るのだ。眼がつぶれるぞ」
 しかたがないから、源三郎、
「申しわけござりませぬ。勝負は時の運、ことによると、これが今生のお見納めかと、思わず、兄上のお顔をあおぎ見ましたので」
「そんな気の弱いことでどうする! ウム? 早く立ちあえ源三郎! ソレ、刀を抜かぬか、源三郎。何をしておる、源三郎!」
 これじゃア源三郎がいくつあっても足らない。

       三

 源三郎! 源三郎……! と、まるで源三郎を売りにきたような田丸主水正の空《から》いばりを。
 したくをととのえながら、じっと横眼で見守っていた峰丹波。
 悪知恵の本尊だけに、人の悪知恵を見破るのも、早い。
 ハハア! これは偽物だなと、心中ひそかに思いました。
 が、その気《け》ぶりをおもてにも見せず、
「源三郎殿、しからば……」
 としかつめらしく、軽く頭を下げると同時に、スラリ鞘走《さやばし》らせた一刀は、釣瓶落《つるべおと》しの名ある二尺八寸、備前|長船《おさふね》の大業物《おおわざもの》。
 秋の陽は、釣瓶落し……。
 というところから、秋日《しゅうじつ》のごとくするどく、はげしく、また釣瓶落しのように疾風迅雷《しっぷうじんらい》に働くというので、こう呼ばれる丹波自慢の銘刀《めいとう》。
 五尺八寸あまりの大男。肩など張り板のように真っ四角なのが、大きな眼をすごく光らせ、いま言った大刀釣瓶落しを下段に構え、白足袋の裏に庭土を踏んで、ソッと爪《つま》だちかげん……。
 堂々たる恰幅《かっぷく》。
 まさに、千両役者の貫禄です。
 丹波、横眼を走らせて、ひそかに、立ちあいの柳生対馬守――ではない、田丸主水正を見やると。
 主水正は、化けの皮がはげかかっているとは、ちっとも知らないから、
「二雄並びたたず。丹波殿と源三郎は、両立せぬ。いずれか一方が、命を落とすまでの真剣の仕合いじゃ。コレ、源三郎、ぬ
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